布を巡る旅 ②喜如嘉〜石垣島〜宮古島
芭蕉布の復興と後進育成に生涯を捧げた、人間国宝、平良敏子さんの訃報を知った。
かつて、那覇からバスに乗り、沖縄本島の北部、喜如嘉にある工房を訪れた折、小柄な体を、洗い込まれた藍の色がいい塩梅の衣装で包んだ平良さんが、何人ものお弟子さんと共に沢山の工程を経て織りあげられる、芭蕉布の仕事場を案内してくださった。
お会いした途端、手をひょいと伸ばして、私が首に巻いていたスカーフの端を、くいっとつまんで布の感触を確かめた仕草が思い出される。
穏やかなお顔立ちとお話ぶりながら、キビキビとよく動き、戦争で一度は廃れた芭蕉布を、この地で復興させることの、並々ならない熱意が伝わってきたものだった。
その後、東京であった芭蕉布の着物の展示会は、ため息の出る程、本当に素晴らしいものだった。
上部を四角く刈り込まれたフクギの屋敷林が続く、彼の地独特の路地を抜けた先にあった工房で、100歳を超えるまで布作りを続けてこられたことを、訃報と共に知った。展示会で見た素晴らしい作品とともに、仕事場でキビキビと足を運び、目配りされる姿が、忘れ難く記憶に残っている。享年101歳。 合掌。
那覇に戻って飛行機で石垣島に渡り、苧麻から績んだ糸を染め、上布を織っておられる工房を訪ねて回った。夕方になって、ここまで来たからには宮古島にも行ってみようと思い立った。飛行機の運行を調べると、日帰りが可能と分かり、翌日、ホテルの部屋に荷物を置いたまま出掛けることにした。
初めての沖縄で、離島を繋ぐ飛行機が、思いの外(例えばフェリーのように)、気軽に利用できると感じ、予定外だったけれど、博物館に所蔵されている宮古上布を、何としても見てこようと思ったのである。
さとうきび畑を抜けた先にあった博物館の奥に、高い所から精緻な絣模様の反物が3本、するりと下がっていた。こんな美しい布は見たことがない。
糸の原料となる苧麻の栽培。細く裂いた繊維を繋ぎ目が分からないように根気良く糸に績む。染料の琉球藍の栽培。図面起こし。精緻な絣柄を正確に出すには、藍で染める前に芭蕉の糸をしっかり括って防染する男手が必要だ。
染め上がった糸で図面通りの布に織り上げるには、眼の良い織り手の女の技術と根気が要る。織りあがった布に砧打ちを繰り返して、宮古上布独特の光沢を出す。
そんな多くの工程を担う作り手の数が少なくなった今、また着物文化がますます暮らしから遠ざかる今、このような布がこれから織られることはない。
かつて、芭蕉布と共に、薩摩藩への過酷な人頭税であった宮古上布。素晴らしい布を仕上げるまでどれほど時間と労力をかけても、仕立てて袖を通すことは、島の人には叶わなかっただろう。
自分達が纏うためでなく、娘達に着せることも叶わず、過酷な労働にもかかわらず、こんな美しいものを作ってしまう人間の凄さ、尊さを思う。
たとえ見返りの無い、強いられた仕事だったとしても、その時、その時の手仕事にかかわった作り手たちは、自分達の持てる、美しいものを生み出すセンスや技術を存分に発揮する時、誇りと喜びを感じていたに違いない。
ひと気のない昼下がりの館内で、立ち去り難く、飽かず眺めていた。
「ここには無い。手に入れたかったら京都に行けばいい」宮古上布の古布を入手出来ないかと尋ねる私に、地元のひとが言った。聞かずもがなのことを聞いてしまった。
予想以上の大収穫で石垣島に戻る便の座席に座る。ゆっくりと滑走路に移動。… … ?なかなか飛び立たない。やがて機内放送が…「石垣島上空の気象状況により、機長判断で、この便はキャンセルになります。」あららっ。
飛行時間30分とは言え、130km の距離があるのだから、起こり得る事態。
荷物は置いてきてしまって身一つだけど、とにかく今夜のお宿を探さなければ。翌朝一番の便を予約して、空港の旅行案内所で、近くの空き部屋を探してもらった。
お宿の夕飯を頼むには遅い時間だったので、近くの小さな居酒屋を若い女将が紹介してくれた。思いがけない事態には、思いがけない美味しい食事が付いてきた。
沖縄料理は、何度か食べたことがあったけれど、やや苦手なところがあった。
最初に出てきたゴーヤチャンプルー。新鮮な素材に絶妙な塩味が、素晴らしく美味しい。あとに続いた何品かの皿から〆の蕎麦まで、どれも、これが沖縄料理だったか!と目から鱗のお味。長い伝統を持つ料理も、最後は作り手の舌だと再認識したことだった。
ダイビングの若者が利用する、居心地良いお宿と、初めて味わう本物の沖縄の味。フライトのトラブルも軽く帳消しになる、忘れ難い旅の一夜になった。お宿の名前もお店の名前も失念しているのが残念。
帰路のフライトまでの時間潰しに、那覇市内で立ち寄った骨董屋さんで、箪笥に収まった沢山の芭蕉布と宮古上布の古い着物を見せてくれた。
宮古上布は、薩摩藩による琉球王朝の支配下で、15〜50歳までの全ての女性に課せられる人頭税として、厳しく取り立てられた。明治になって、270年に渡る薩摩藩の支配が終わった後も、琉球王朝による人頭税は36年間続けられた。
やがて大正、昭和初期まで、産業として興隆を見た宮古上布も、戦時中は贅沢品として日本政府に禁じられ、アメリカ統治下の戦後は流通を禁じられた為に衰退してしまった。
箪笥に納められていたのは、戦前、沖縄の人々が袖を通すことができたものだったのだろうか。まさに眼福、殆どがとても手が届かないものばかりだったけれど、昭和初期のものだという宮古上布の着物を一枚求めることができた。
博物館で見た芸術的な反物とは異なるけれど、目と肌に馴染む庶民的で素朴な柄と風合いは、まさしく宮古上布である。
布に惹かれて訪れた沖縄では、糸芭蕉や苧麻、琉球藍など美しいものを生み出す自然の必然があることを納得すると共に、布と人々が辿った長い長い苦難の歴史に触れることになった。
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11月のベランダでは…
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