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旅の宿…豪雪地の露天風呂で

山形と秋田を跨いでそびえる鳥海山が、2000mを超える山に登った最後だった。憧れの山を踏破したことで、山に向かう気持ちを一応収めることができた。

山行の帰りに投宿したのが、冬場の積雪量を伝える時よく名前の出る、山形県大蔵村の肘折温泉だった。湯治客も多く、雪が溶ける連休ころから秋まで、山菜やキノコなどが並ぶ朝市が楽しい。

予約した「葉山館」は、川沿いに並ぶ温泉街の最奥、高台にどっしりと構える、木造の風情ある宿だった。一行は男性4人と私。若い頃はピークハンターの彼らの足手纏いになるまいと、必死で付いて行ったが、程よく年を重ねて、渓流釣りや焚き火や温泉を楽しむ山行になり、私も野点道具を持って行って、テントから起き出してくる一人一人に、沢の水で一服の茶を点てる余裕。楽しい山旅だった。

夕食後、酒盛りをする4人を残して、半露天のお風呂に行くと、女性がふたり湯船に浸かっていた。仲良く、小鳥のような早口のお喋りが弾んでいたが、内容がさっぱりわからない。外国語かと思ったくらい、一言も聞き取れないでいた。

「どこから来なさった?」ひとりに声を掛けられて初めて、ああ、日本人だった!

湯船から上がって涼んでいると、すでに部屋に引き揚げていた女性のひとりが戻ってきて、部屋に寄っていらっしゃい、と誘ってくださった。

二間続きの座敷に布団が敷かれ、残った畳のテーブルにツマミを並べて、男性がふたり、寛いで日本酒を飲んでおられた。寒河江市在住の三姉妹とそれぞれのお連れ合いが毎年6月、骨休めに数日間逗留されているとのこと。都合で下の妹さんご夫婦はその年は来られなかったようだ。

陽気な姉妹とシャイな東北人のお連れ合い。お風呂場では聞き取れなかった言葉も、だんだん慣れてきた。小一時間ほど、楽しくお喋りした後、部屋に戻るときには、これを持って行け、あれも、と果物、お菓子、漬物…抱えきれないお土産を持たされた。さらに…

「こんなことなら、冷蔵庫のサクランボを持ってくるんだった」と妹さんがお姉さんに。えっ!寒河江のサクランボ農家の方だったのだ。大好きだけど、高嶺の花だった🍒🎶

それから毎年、6月が楽しみになった。友人達や実家の仕事先へのお中元としても送って頂き、季節の終わりには「今年も沢山注文していただいて」と、請求書と一緒に珍しい種類の一箱も。

そんな幸せなお付き合いが10数年。ご主人が体調を悪くされると、ご両親の体の負担を案じた息子さんが、お孫さんの為にと一本だけ残して切り倒されて、サクランボ便りは終わり。それでも翌年も一箱送って下さった。

それから何年か経って、術後の湯治を思い立った折、葉山館を思い出した。ところが、サイトもあるのに、何故かお宿と連絡が取れず、肘折温泉の別の宿に予約を取ることに。

迎えに来て下さった番頭さんの話で、何と、とりわけ雪が深かったその冬の年明け、雪下ろしの事故で葉山館のご主人が亡くなり、後を継ぐ者がおらず、女将さんも去られ、廃業されたのだとか。

夕食前、散歩がてら川沿いを歩いて行くと、玄関を板で閉じられた、懐かしい葉山館が、しんと立っていた。橋を戻って、対岸からもしばらく眺めた。川風が心地良い少し熱めのお風呂、山と川の恵みをもって、心尽くしのもてなしをされていた働き者のご主人と、寛いで滞在を楽しんでいた人々を想った。

寒河江の皆さんが、賑やかに私たちのワゴンを見送って下さった、趣のある立派な破風屋根の表玄関。最近のネット情報では、すでに更地になっているという。

お宿の歴史を早送りで見せられたよう。胸が痛くなるほど寂しい、それでも忘れ難い、大切な旅の記憶である。


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