無意識に暗在する地域思想と差別化意識 バーソロミュー3考察
今日 半寝たきり状態になった親の介護オムツを買いに地元のドラッグストアに立ち寄った
自分は店に入るなりレジの人にオムツに詳しい店員を呼ぶため声をかけようとしたが 客が並んでいてすぐには声をかけることすらできなかった
そのとき商品陳列棚がレジ手前までありT字型になっていて 後続に並んでいる人が棚の陰になりみえていなかった
そこでレジ斜め前で待ち受けて 次の客がレジに入る一瞬のスキをついてレジの人に店員を呼ぶことを告げようとしていた
それを 自分の横に並んでいた30代?の若者は勘違いしたのか
「後ろに並んでいるからこっち・・・・・」と少し不満そうな顔をして自分に言ってきた
自分はいちいち説明するのが面倒に思い 適当に「あっ!そっか・・・」とその場をやりすごした
別にこのあんちゃんの言ったことにむかーっとまではこなかったが ほんの一瞬 その「言い方」がいけすかんな~っと思った
後で車に乗る頃には全く気にならなくなる程の事でしかないが ほんの一瞬というか束の間だけ 気分を害したことに違いは無い
車に乗って5分も経たないうちに 気分は完全に戻った これがもうちょい頭にくるようなことなら 次のような発想に至るには日数を要したかもしれないが
自分は車の中で 今こそ!チャンスと思った
それはバーソロミューが3冊目の本の中でいっている
「人から言われて嫌だな~」と思った感情をじっくり観察して その構成要素を分析するというワークをやるのに丁度いいと思った
読者はこの場合 自分が多少でも気分を害したという現象の無意識に何があるか? 予測つくだろうか?
もちろん 自分の不手際を誤解されて注意にちかいことを言われたわけだから 決して気分良いものではない しかし実はそれだけではないのだ
自分は 即座にこれと同じことを都会で味わったら 同じく気分を害したとしてもその内面にあるものが全く違うものであることは
自分の内面ゆえに0,1秒で察していた
(※余談だが、この記事での自分の体験のポイントはバーソロミュー3以外で、どの宗教やスピのどの本のどこに書かれているだろうか?・・・)
間違いなく自分の無意識には 地元への逆差別意識というものがあることに気づいた
如何にも地元のあんちゃんっぽい奴だったわけで コロナをテレビのニュースレベルの知識であまりにも深刻に捉えていて かつ 順番をとられることに神経質なまでに過剰に反応していて 如何にも田舎くさい陰気な声で言ってきたというのが特に気にいらなかった
つまり 自分にしてみると こんな田舎しか知らないような垢抜けしないあんちゃんが 地元の感覚でさも事ありげに言ってきたな~
とまぁこんな感じだ
つまり 自分の中には 田舎に住んでいても他の地方や都会という場所をとくと経験して見聞が広くなった奴に言われるならまだしも こんな地元しか知らないような奴がいうのは、許されない などという勝手な決めつけが潜んでいたのである
(※もっとも自分は地元の狭い田舎臭い思考は元から大嫌いだ)
次に 即座に じゃ~ なんで自分はそんな見方をするのか? と次の問を自分にしてみると それは
地元しか知らない奴は 井戸の中の蛙みたいな者で 自分達を卑下する卑しさがある
つまり 例えば、浄土真宗王国の我が県のごくごくありきたりな趣向性=自分達みたいな田吾作が政治論議などしても意味はない そんなもん興味無いし 何をかしこまって大言壮語を吐いているのか? というような「ノリ」に対する自分の中にある嫌悪感
なんとこんな部分にも意識の深い個所では結びついていることがわかる
ほんの一瞬の出来事でほんの一時だけ嫌な気分になった心因にそのような背景がある
ここまでくると 事象を完全に読み違えていることがハッキリしてくる 実際そのあんちゃんが自分の読みの通りの人物かどうか? 今は全くわからない
はてまた 微々たる感情だっただけに なぜに自分はあの時気分を害したのか? わからなくなってきてさえいる そんな微々たる感情の深くにこんなメカニズムが存在しているとは 確かに後で深く考察しない限りわからない
上までは わかりやすく説明したが 自分は今まで同じような 勝手な思い込みというか逆差別意識で人を見たため後でさらに嫌な思いをしたことは多々ある
最近はこの系統の差別は払拭したつもりでいたが 意外にしつこく残っていたことがわかった
さらにじゃ なぜにそれだけ 地元とそれ以外の地域を知っている の違いに拘るのか?
いわばこれは 普通なら逆のはずだ 例えば 同県人なら仕方ないが他県のよそ者なら 言われるとムカッとくるとか・・・
しかし自分の場合 過去において これはほとんど逆のパターンが多かった その心因を深く掘り下げていくと やはりそこには
親からの教育 地元の「ノリ」みたいなもの が複雑に存在している
特に自分が嫌なのは 自分の正当性のある意見さえ隠して 見ざる言わざる聞かざるを決め込もうとする姿勢 そのさらなる背景には
「どうせ自分達なんぞは 雑魚にすぎず あんたもその一人だということをわかりなさい」
このような 自分個人を卑下する態度だ しかしそれも どこまでも自分個人のみにその思考を留めている者は、救ってやるべきでありさほど腹もたたない
最も嫌な奴というのは そういう自分自身の個性の正当性を卑下して田吾作になりきる思考を人にまで押し付けてくる者だ
よくよく考えてみると 高校時代~今 にかけて むかっ腹が立つ場合の半分はこういった馬鹿と出くわした時だ!
そう!自分はスピリチャリストが二言目にいう「人に価値を押し付けるな!」と吠える気持ちは 実はこの点において誰より強いかもしれない
ただ自分が日常、(リアル世界のみの話)だが、激怒する時というのは 自分が下だと無意識下で決めつけている者が自分に指図してきた時だ
最も 自分の中にもこの趣向性は若干ある 仕事場では今度この逆に走りすぎる者をみると そこまでこだわらなくてもいいだろと思ったりもする
その基因には この福井特有の田吾作根性が多少なりとも共有されている (^^;)まぁ~なんというのか福井や石川という場所は、それほどイケイケを敬遠する風潮がある しかし それはもっと大局的にみれば 日本人全体としてもあるわな~ 違うかな?
まぁ何はともあれ 今までの自分のtwitterなりブログなり少しばかり目を通してくれた人は 言わなくてもわかってもらえるとおもう次第だ
でも今日はこの系統の問題ではなくて そのレジ前の若者を一瞬でそういう奴だと捉えている個所に問題がある 今考えるとそう捉えるべき理由は一切なかったのにそのようにみていたことがわかってきた
すぐに思いつくのは この前も人のタイプは違えど レジ前で注意されたことがあり 自分にとって嫌なことはここで起きるものだという思い込みが影響しているかもしれない
もう長くなるため この自分の暗在系にあるネガティブな要因の拘りの根本の説明を省き 自分で分析した辿りつく根本要因を言うなら
そこにあるのは 上にあげたような微々たる事柄さえ 親父というものが潜んでいる それは 同じことを経験したら通常だれもが感じる感情以外の部分で
それが良きにつけ悪きにつけ 必用以上の歪んでいる感情の突起部分には親父が存在していることがわかる
別に誰しも子は同性の親の背中をみて成長するわけで、自分はそれが全て悪いとなどと思ってはいない
常識論の範疇でいえば 話はこれでおわりだが 今はバーソロミュー3での 歪んだ感情の裏に隠れている実態の解明だ
自分の場合 人と話す時 あるいは 人から何か嫌なことを言われる時 その受け手である自分の心像に何が浮かんでいるのか?
これを考えるとき つくづく不思議に思うことがある
例えば 友達のAと会話をするときはなぜか自分の心像は死んだ伯母になっていたり また親族のBと話す時は 心像が自分のお袋になっていたりと・・・
話す人ごとに 自分で自分をイメージしている心像が違うのだ 同じ自分という者でも自分で確認しているマインドの主体が違っているのである
これ読者は経験ないだろうか?
自分は これらの現象により 本当の自分などというものは 大方人との交わりの中にはほとんど存在していないという結論に達している
つまり 過去に作られた マインドの過剰な喜びや感傷 恐れなど 過剰を生み出した相手のイメージが 人と話すときそれを連想されうる相手に合わせ受け手である自分の像にそれがでてくる そういうふうになっているのではないか? ということだ
簡単な例をあげれば すぐ怒る親父に相対したとき いつもそれに対応しているお袋のイメージが自分の中に像としてでている という具合だ
しかし全部が全部ではない 例えばこの記事なりブログを書いているとき 自分の心像はどこまでも自分である
しかしリアル世界での 生での人との会話というのは 大方、自分だと認識しているその「像」に当たる部分は誰か違う人物になっている場合は多々ある
特に このように 自然な反応として沸き起こる必用以上の歪んだ感情や自己防衛反応などなど その代役変換が起こっていることは多い
もちろん全部ではない
さて このような事象を バーソロミュー3で言わんとしていることと簡潔にまとめるつもりでいたが バーソロミュー3は非常に奥が深く
簡単に説明しきれるものではない バーソロミュー3は アマゾンのレビューとて 1~4の中で最も少なく1つしかない
4はまだ読んでないため何ともいえないが 3は相当奥が深く 誰もがレビューを書くまで至らないのだろう
そういう本こそ 真に認識できてものにしたときは、得るものでかいことが予測される バーソロミュー3はまた記事にするつもりだ
こういった事以外に スピリチャルというのは範囲が広い 当然宗教とて同じだ ここから先は スピ系、宗教系の"男性のみ"に言うが 頭がいい特に年配の人はとくに聞いてほしいのだが
次元次元というが 次元という単語の意味には2種類ある 1つは宇宙構造の意味としての次元だ もう一つは 構造学 倫理観 エネルギー観 その他
まだまだ 単語1つの中には 多種多様な「意味あい」が含まれている それら意味あいを「次元」という場合もある そんなことぐらい誰でもわかる
例えば その全体像の構造解明の徹底考察 と 倫理観の内側(気持ちの側面)からの徹底したマインドの価値考察 など次元はほとんど全く違う! おわかりだろうか?
例えば、・・・経と・・・経では その得意としているその次元がまるで違っていて 比べる対象ではありえない
その次元が全く違うものを そもそもたかだか本一冊でいい現すことなど到底できやしないのだ スピリチャリストや宗教者は、ここを重々気を付けないといけない
自分も今までこれができていなかったのかもしれない
その各種次元ごとに 何冊もの教義や本ができるほどであり こんなあからさまな事実を目にして 一部の "次元観" だけで 意識世界 全てを掴んだと思うのはもはや手の付けられない馬鹿同然に陥入りかけている証拠といえる
これは誰もが陥る可能性のある罠であり 当然自分だってありえる話だ 誰でもこれに陥りかける時はある というか何回か陥るだろう
時に非常に優れた人ゆえに 一気にただ単なる馬鹿に落ちる瞬間がある こういった側面には その人の人生を投げうってきた意地や全プライドが後押ししてしまうから余計厄介だ それを冷静に見極めるために プライドの高い売国政策をやるような政治家などを観察してみるといい その政治家だって他人からみる自分がよもや馬鹿になっているとは到底思っていないだろう ただあるのは 敵と味方という実に都合のいい区分けはある
例えば色というものは 本当は分かれていない 完全に連続していて それは無限大だ それを36色などと分けている時点ですでに致命的なミスをしている これは実は相当な重症といえる これはただ単なる種類という概念ではなく 青は赤が存在するためにはなくてはならないという意味にそいて一心同体だ
元へ
なぜなら 定義化をすればするほど 説明をどんどん省いていき "モデリング思考"に安住し 砂の数ほど存在している "圧倒的例外" を考慮しなくなるからだ これがわかるかわからないかが分かれ目だ 言葉の意味合いの次元的に圧倒的例外 これだ!
そして 最後の最後にはちゃんちゃらおっかしな言動をしているというに至るのである
バーソロミュー3は特にこれを力説しているのがわかる
しかも全ての感情や概念は 絶対的に他との繋がりの中で起こるものなのに それを区分けして名称を設定している時点でおわっている! まずはこういった微妙なものに目を向けるべきだ 名称やレッテルを張るというのは 実はその行為自体がさらなる悪因になっていくことが99%だろう
なぜに このような転落が発生するかといえば なぜなら後者の見るべき観点の「次元」というものが多様に存在しているからだ 実は拘るべき みるべき観点というのは無限にあることを忘れてはいけない
このみるべき次元観点が 非常に狭いどっかの反日国家の住人と日本人との違いとは ここにこそあるのではないか?
それを知るとき 理屈や言葉で覆いをかけ 精神世界に覇権をとなえようなどと思ったら最後だ 我々はその生末を過去みてきている 哀れなものだ
そのものは まさに女性の智慧よりはるかに下回っていることに気づかなければならない
これに陥る典型的なパターンは あまりにも低欲な連中のいうことにいちいち反応していると段々調子がおかしくなるといえる そのような奴こそ適当にあやしてやればいいのである
できうる賢い選択は ほどほどに良い案配で教義をといて 後は自由奔放に気楽にやる これに限る
完璧主義は全てを破壊し 全てをもくずにするという "書物以前"の 絶対的真理 をどこまでもどこまでも忘れるべきではない
円はどこまでも広がっていく というこの事実1つをみて 理屈は絶対駄目という理屈を悟る必要有りといえる そして即座にこの文は意味を喪失して言葉は消えるのである しかしほどほどになら 良い案配でなら全ての文の意味は存在可能となる
意見の違うものを叩こうと意気込めば意気込むほど その意見の違う者の存在もでかくなってくる それが現実だということぐらい 別な側面でわかっているはずだ
我々の活躍の場であるこの日本の日本人は、所詮 理屈や言葉やスピリチャル、宗教だけで全てを認める民族性ではない 50歳も超えれば この日本において そんなものはある種チリほどの値打ちしかない それが故 ネットで10年間活動した者とて 現実のリアル世界では知らない者の方が圧倒的に多いのはこのためだ これは一長一短だが とにかく日本はそうだ
頭の硬さは罪悪以外の何ものでもない 全ての形而上学実践者は これで全てを1舜にして破壊してしまうことを忘れるべきではない