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【43作目〜46作目】#RTした人の小説を読みに行く をやってみた。

【43作目】亜済公『倫理回路』(40枚)

評:SFと幻想文学はトレードオフなのか?

 今年の夏、草野原々さんとナンバユウキさんにお誘いいただき、若手SF作家が寄ってたかってSFの話をするというオンラインイベントに参加させてもらいました。そこで「SFとは何か?」という荷が重い問いが出てきて、それについて苦し紛れな何かを答えたわけですが、それからもこの問いはぼくにとって大きく、いまのところ「特定の価値観や認識を一定の論理的な手続きによって描出する散文表現」がSFではないかと考えています。
 ただこの問題を考えるようになって痛感したのは「SFを考えるにはSFだけを考えていてはいけない」ということで、SFと対となる問題を抱えているのが「幻想文学」ではないかと思います。両者には物語内で発生する事象の説明可能性や主観・客観の度合いなどである程度は分類・比較可能だろうと思いつつ、しかし相反するものでもなさそうなので、このあたりの議論方法は整備していかねばならないと感じています。今回取り上げさせていただいた『論理回路』はまさにその問題を備えている作品に感じました。

 本作『倫理回路』は肉体と精神のはざまにある自我をめぐる物語と読みました。ヒトとしての生理的・動物的挙動に嫌悪する語り手が抱く「ロボット」への美意識が描かれ、語り手の「信頼できなさ」がその美意識を歪ませて幻想文学風のテクストとしても読めるように設計されています。そして「ヒト」と「人間」や「ロボット」といった概念の差異が、本能と理性や存在を規定する因果律に根差したものとしてクリアに説明されており、作品構造の見通しがよく読みやすい作品だと感じました。
 同時にこの作品の読みやすさは、ロボットをめぐるSFの「ベタさ」の継承にあるとも思います。SF作品で多くの作家により反復的に描かれる大きなテーマには「人間とロボットの差異」があり、その代表作となるのがフィリップ・K・ディック『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』、本作でもロボット三原則の引用元となったアイザック・アシモフ『われはロボット』であるというのはいうまでもありませんが、この主題自体が過去の作家・読者らの仕事によって十分に整備されています。

 ここで改めてSFとは何かという大袈裟な問いに一度目を向けてみると、重要なのは特定の作品世界(観)をなぜ説明できてしまうのかにあると思います。本作では「動物性の脱却」と「説明可能な行動規範=理性への美意識の希求」が物語の推進力となっており、「信頼できない語り手」であるがゆえに技術的説明よりも認識的・概念的説明が前景化しています。「ロボットによる殺人」は語り手の外部にある具体的情報として良い位置に配置されている一方で、この書き方だとこの事件が語り手の妄想的な次元でしか関与できず、話を小さくしてしまっていると感じます。結果、この作品固有の倫理観・思想が世界全体を覆うものではなく語り手の狂人的思考の域を脱せておらず、幻想文学風の狂いとSFとしての作品スケールがトレードオフになっているのは構造的な欠陥かもしれません。ただ、両者の特性を損なわずにすむ技法を見出すことができれば、かなり発展的な作品を書ける方ではないかと感じました。

【44作目】川咲道穂『夜珠の雫』(120枚)

評:卑近な主題、「主人公が作家」の小説の落とし穴

 何人かの友人が純文学系新人賞の下読みをしているのですが、そのうちのひとりから「学生は学生小説を、会社員は会社員小説を、といった具合に卑近なテーマで書いている応募者はやはり多い」という話を聞きました。そしてこうした卑近な主題で書かれた小説は最終的に高い評価をするのは難しいともいっていました。そこまでガッツリこの話をしたわけではないので詳細は聞いていませんが、理由はなんとなくわかります。卑近な主題を扱うことによって「フィクションとして作り込むこと」がおろそかになっているのだろうとぼくは予想します。
 本作『夜珠の雫』は作者さんがどこでなにをしている何者かを知らなくても読めば「卑近な主題で書いた小説だな」という印象が上記のような「悪い意味」として感じ取れてしまいます。それが事実かどうかはもちろん別な問題なのですが、フィクションとしての作り込む技術的な配慮や戦略があまりにもなさすぎるのがその最たる原因です。
 本作の筋書きは「自堕落な生活をする作家志望の語り手が、プラトニックな関係にある恋人・深雪に愛され続けたいがために小説にすがりつき、酒もタバコもやめて再起しようとするなか末期癌が発覚する」というようなもので、それだけでもかなり胸焼けしそうなほどテンプレ的な「破滅的文学青年物語」です。
 又吉直樹『劇場』などもまさにこの型に相当する物語であり、ぼくはこのタイプの物語にはなぜか主人公を献身的に支えて無条件に愛してくれる彼女がいることに強く否定的なのですが、技術的な仕掛けの有無が完成度を左右しています。『劇場』ではパッとしない劇作家としての生活をダラダラ続けている時間感覚が完全に消失してしまっていて、時間の流れが自覚されてしまった瞬間に物語の終わりがやってくる。

 叙述や描写によってどの感覚を機能させどの感覚を麻痺させるかの選択は、語り手や視点の選択、記述される情報の特徴や配列などの精査により技術的に可能です。卑近な主題で小説を書く強みとして知っていることを楽にそして具体的に書けることが挙げられる一方、その具体性が文学らしさと見間違えてしまうと無為無策な散文に堕してしまいがちです。
 とりわけ本作で気になったのは作中作品の処理です。「主人公が作家の小説」では作中作品が出てくるのは必然といえば必然であり、そしてそれは同時にメタフィクショナルな問題を原理的といえる次元で引き連れてきます。問題は大きくわけて2通りあり、ひとつは「作者の人生経験と作品の関係性」、もうひとつは「小説を書くという行為への分析」で、前者はヒューマンドラマ的な展開になりやすく(流石景『ドメスティックな彼女』などその典型)、後者はポストモダン的な実験小説になりやすい傾向があります。
『夜珠の雫』は前者のようなカラーが強い作品として読みましたが、リチャードの挿話などかなりの尺を使って作中作品が書かれるわりに小説的戦略がまるで見えない、内容も手垢のついたような話で興味を持って読み進めることが困難など致命的な瑕疵がみられます。こうした無策な作中作品が続くと、「小説を書くことにより無条件にじぶんは救済されるだろう」みたいな甘い希望みたいなものを感じ、それは実際に「小説を書く=深雪との関係性をつなぎとめる」であるがゆえにかなり無批判に肯定されていると読めます。このアイデア自体の良し悪しの判断は好き嫌いになるだろうなとおもうのですが、あえて言えばぼく自身はかなり強く否定的です。

 話を戻すと、「主人公が作家」であるケースでは「小説を書く」という行為がどうしても無視できません。しかしだからといって「小説を書く」ことについての思弁をダラダラ垂れ流したところで小説は書き手の内側にもこるしかなく、袋小路に入ってしまいます。そしてそれは「小説を書く」ことを話の中心にしてしまった以上、不可避的に現れる問題です。この問題を乗り越えるためにこそ技術的・戦略的なアプローチが必要になってくるのですが、このあたりの問題は保坂和志『書きあぐねている人のための小説入門』や氏の作品を読んでみるとどう考えればいいかのとっかかりを得られるのではないかと思います。

 本作をあえて一言でいってしまえば、「どこまでも青臭く、自己完結的で、どこまでも甘えきった小説」という感想になります。しかし、そうした印象を持ってしまうのは小説的技術や戦略がこの小説に不在だったからであり、それらを取り込んでいくことによって外の世界と接続され、より広い世界観で小説を考えることができるようになるのではないかと思います。ふだん読まないジャンルや海外の小説、小説以外の本をたくさん読んで、ご自身が信じた文学観でぼく程度のつまらない読者ならぶん殴れるくらいの強さを獲得してもらいたいと感じました。

【45作目】伊藤なむあひ『来たときよりも美しく』

評:解釈の不確定性を前提とするのはフェアか?

 量子力学の概念はアナロジーとしていろんな分野で比喩的に用いられています。小説はその最たるものともいえるのですが、最も有名なシュレディンガーの猫は「確率的に混在していた複数の状態が観測によって一意的に確定される」という意味でよく引用されます。
 この話の精度について少し思うところがないわけでもなく、たとえば2020年にノーベル物理学賞を受賞したペンローズは「一般に量子力学とは古典力学のような決定論的な物理学ではないとされるが、決してそうではない。量子力学を記述するシュレディンガー方程式も量子力学というスケールにおいて決定論的な記述をしている。観測によって生じる不確定性の問題とは、観測行為によって対象とする現象が量子力学スケールから古典力学スケールに移行するためである」という旨の解釈を『心は量子力で語れるか』で述べています。
 まわりくどい話で申し訳ないのですが、事象と認識をめぐる問題は時に〝単なる〟技術的な問題でしかないケースもあります。上述の物理学の場合は、統一的な支配方程式が未だ見つかっておらず、スケールや対象ごとに有効な方程式が異なるがゆえ、そのつなぎ目で不安定な問題が生じているという「技術的な問題」であり、これは小説の技巧ととてもよく似ているとぼくは考えます。とりわけ今回読ませていただいた作品『来たときよりも美しく』は語り手の主観・限定的な語彙表現・存在不確かな数々の記述対象などを扱っているため、視点や記述技法による不確定性を根幹に据えた作品と読みました。

 本作では、一般に不吉を象徴する3つの出来事が起こった夜に「僕たち」がこっそり行う遊びについて書かれた小説です。それは山「あんちじょ」と「僕たち」がよぶ場所にあるベッドの上に横たわり目を瞑ることらしく、そこへ忍び込む道中に「僕たち」の町について、自殺したコンビニの店主や殺人鬼など死のイメージを喚起させるものが紹介されます。
 記述形式はおそらく子どもだろう語り手の舌足らずな語彙、そして何かと説明しようとする口ぶり、殺人鬼に示す友愛のような一般的とは言えない倫理観など、概念の偏り/解体を指向した「信頼できない語り手」と読むことができます。「僕ら」が何者かが明かされず、そして世界観に具体性が与えられることを意図的に回避したような情報の出し方によって、様々な解釈が可能であるように仕向けられていると感じました。たとえば作中で「僕ら」がやたらと説明しようとする口振りは自らの存在を訴えるようにかんじることもでき、その実体のなさに合わせて「作中で語り手は誰にも出会わない」ことをつなげると「実は語り手は死者である」みたいな読み方も可能です。ただ、この作品の大きな論点は、この書き方が読者に対してフェアであるかということにも感じました。これは本格ミステリとしてアガサ・クリスティ『アクロイド殺し』がフェアかアンフェアかという議論とも同様のものになると思います。

 しかし読者との知恵比べの趣がある本格ミステリと違い、本作のような詩情や言語表現の遊戯性を意図した作品にそもそも「フェアな小説」という概念があるかどうか、それ自体の議論を厳密に行うのは困難です。しかし、「読者の想像力次第でどうとでも読めてしまう」ことが意図された対してぼく自身はあまり肯定的な立場ではありません。もちろん、本作は一定の世界観をもって制作されたことは感じ取れますが、具体的にどのような世界でどのような現象を扱ったのかというディテールを「書かない」のではなく「隠蔽している」という印象もまた強く受けました。冒頭に例示した物理学の話をもう一度引っ張り出すと、解釈の不確定性は物語が「書き手の認識」から「読者の認識」へと手渡される行為(=読書)によって引き起こされるスケールの移動だとすれば、たとえ多世界的・確率的な世界観の作品だとしてもそれ自体を一意的な世界観として具体的に作り上げた上で読者に解釈を委ねるのが「フェアな小説」ではないかという気がしないでもないです。この具体性の放棄、一意的な世界観を信憑性の低い語り手を設定することで「あえて提示しない」となると、言葉の表面的な雰囲気だけでしか小説を知覚できず、非常にもったいないと感じます。

 言語表現において「詩的であること」を示すには、その言語表現が駆動する場の構築がとりわけ小説では重要になると思います。その場が具体的に提示されてこそ、初めて書かれたことばや物語についての知覚・考察・批評が可能になるのではないかと思いました。

【46作目】永井太郎『残って拡散する響き』

評:小説だけが知っている時空

つい最近ですが、縁があって滝口悠生さんにトークイベントの相手役としてご指名いただき、小説の技巧についてお話させていただく機会がありました。滝口さんのデビューは2011年で、その当時の日本の純文学シーンは保坂和志さんが群像で『未明の闘争』を連載し、山下澄人さんの作品が注目を集めはじめた時期だったと記憶しており、ここから数年、小説の語りでもとりわけ人称への関心が強まっていきました。トークイベントのなかでぼくは滝口さんのデビュー作『楽器』に大きな衝撃と影響を受けたといったのですが、これは語りが設定された小説空間を自由に移動することにより、ひとの身体を超え、「小説」という世界ならではの認識のありようを示した点です。テクストの外、ありていに言えば現実世界で、ぼくらが認識したり感じ取ったりできることは物理的な制約を受けるわけですが、「なぜ小説を記述できるか」「なぜ小説が存在できるのか」への思考や、もっと素朴に「小説を書くことへのよろこび(快楽)」を振り返ってみれば、ぼくらがフィクションを援用して認識・感知・思考できる領域がいかに広いのかを思い知らされます。

ご紹介いただいた御作品『残って拡散する響き』(ことばとvol.2 掲載)はまさしく、小説という表現だからこそ切り拓ける認識領域への挑戦を志向した小説だと読みました。ある土地に身を置きながら時空や生死を軽々と跳躍する語りによって、描写・叙述される街やひとびとの風景と歴史が渾然一体となって固有の空間を作り上げることに成功していると思いました。記述されたことばはどれも丹念に選び抜かれているし(あるいは確たる必然性を持って書かれているともいえます)、文体も高い水準で構築されている。間違いなく秀作ではあるのだけれど、同時に習作の域を出ないのではないか、とも感じられました。やはり、先行作品として想起されるものがいろんな時代に見られたからです。

この作品は、知覚されるもの、風景のなかにある事物、家屋とそこに息づくひとびとの記憶がときに丹念な描写として、ときに昔話のような叙述として次から次へと流れていきます。その手つきは快楽的で、小説を書き、それを読むよろこびそのものへの信頼があるからこそ成立しています。とりわけ描写には書き方よりも使いかたに感銘を受けました。描写によって記述対象となる空間の時間を止めてしまうからこそ、時間から自由になれるというようなスタイルが特徴的で、時間のなかに眠る時間にどんどん潜り込んでいき、シームレスに続く筆運びが一大パノラマを作り上げています。それを眺めるだけでも読者としては壮観です。
ただ、それ以上のものを感じとったり、考えたりするのには足らなかったです。単純に記述されたひとやひとでないものの物語や風景が残ってくれなかったというのもあるのですが、空間の構築だけで小説が終わってしまったかのように感じられたからです。完成した空間が動き出すような感慨がなく、先行する過去の作品が思い出されてしまうとどうしても「その先(またはプラスαとなるもの)」がなければ、印象に残らないというのが正直なところです。
モダニズム文学にしろヌーヴォーロマンにしろ、それらはエクリチュールの快楽が作品の重要な魅力にはなっているのですが、ヴァージニア・ウルフにしろクロード・シモンにしろ、彼女やかれは決して小説空間の構築だけでは終わらなかった。そこにはいまこの世界に存在してしまうがゆえに切り離せない歴史や、呪縛とさえ言えるだろう戦争の記憶など、決して消えてくれない切実な声があります。冒頭で紹介した滝口さんとのお話では、「小説に登場するひとびとの切実な声が聞こえる視点」がキーワードとなったのですが、それは小説の語り手が語りをはじめるよりずっと前段階にある問題で、その適切な位置が見つかればこの小説もまた、いまはまだ聞こえていない、か細いけれど誰かの耳に届くのを待っている切実な声があると思いました。小説の個性(つまり、読了後にも長く残るもの)は、その声なのではないかとぼくは思います。
この小説を読むと、作者はその声を見つける準備はできていると確信しました。あとは作り上げた空間により耳を傾け、より多くの声を集めることではないかと感じました。


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