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#RTした人の小説を読みに行く をやってみた【38作目〜39作目+これまでの参考作品・文献リスト】
まずは近況を。
半年ほどの休止を経て、再開することにしました。
作品をご紹介くださったみなさま、ほんとうにありがとうございます!
理由については外出できなくなって、本を読んだり小説を書いたりするひとが増えてきた(気配をかんじる)ためです。ぼくはもともと家でできる仕事をしているため、概ねこれまでと変わらないのだけれど、保育所に子どもを預けられなくなったこともあり、集中して本を読んだり小説を書いたりする時間は減っています。これがなかなか大変で、更新もかなりゆっくりになるのですが、気長にお待ちいただければ幸いです。
期間を空けて企画を再開すると、あらたにこのnoteマガジンを見つけてくれた方々も出てきて、ありがたいことに他の方への紹介も行ってくださっています。ぼくとしては、もともと「WEB小説の書き手に批評を肌で触れて欲しい」とおもってはじめたものなので、Twitterで反応してくれることは大変勇気付けられるものです。もちろん批判もあり、精神的にもけっこうキツいところですが、体調と相談しながらしばらくは100作批評を目指して頑張ります。
また、toibooks店主の磯上竜也さん、作家の町屋良平さん、大前粟生さんとのオンライントークイベントに出演しました。小説を書かれている方も書かれていない方もぜひぬるぬるお楽しみください!
今回は、2作品の批評とこれまでのおさらいとして「参照した小説・アニメ・ゲーム・映画・文献のリスト」をまとめました。
【39作目】青く薫る(寿すばる)/とくべつのなかの平凡を書く
ちょうど友人と70年代カルチャーについての話をしていて、そこでふとアイドルの歴史みたいなことを考えていました。70年代は山口百恵やアグネス・チャンなどのテレビアイドルが熱狂的な人気を博し、80年代になれば松田聖子、そしてのちにAKBグループを立ち上げる秋元康によるおニャン子クラブが登場し、そして現在では規模の大小を問わず数えきれないほどのアイドルグループが乱立するに至っています。
とはいえ、ぼくはアイドルについて完全に無知で多くを語ることなどできませんが、遠目に見ても過剰供給ともいうべきアイドルの乱立は激しいマーケティング戦争を引き起こしているように映り、かつてのような「子どもからおじいちゃんおばあちゃんまで誰もが知っているアイドル」ではなく巧みなターゲット設定による棲み分けで生き延びているアイドルもいるようです。そしてまた、「アイドルになりたい女の子」が増え、それは「アイドルになりたい」と思えるハードルが低くなったとも考えられます。じぶん自身のことを考えてみても、むかしは「作家になりたい」的なことなどはずかしくて言えなかったし、なにかを表現すること自体が非常にはずかしいこととおもっていました。しかし、時代や環境の変化に伴って表現をはじめる敷居が低くなったのは事実です。もちろんそれはいいことばかりではなく、再度アイドルに話を戻せば、「アイドルになりたい女の子」を狙った搾取ビジネスも横行していて、ひとつの労働問題としてニュースで取り上げられることもあります。
現代におけるアイドル小説を書くということのむずかしさは、「アイドル」という響きから想起される〝べき〟とくべつさと、現実に氾濫しすぎてしまったがゆえの平凡さが混ざり合ってしまったことにあるようにおもわれました。御作『青く薫る』はアイドルというとくべつさへの希求を原動力とし、打ちのめされ、平凡であることを肯定する〝良い話〟が描かれています。しかし、そこには作品世界固有のアイドル一般についてのありかたがうまく提示されておらず、世界とあたしの立ち位置が明瞭に相対化されていないため、「平凡(ふつう)」であることが自己肯定のための言い訳にしか映らないのがもったいなかったと感じました。
たとえば、主人公が属する作中の結成されたばかりのアイドルグループ「檸檬女学園」がどれほどの注目度がありどのくらいの規模のグループなのかが明示されていないのは、「アイドル」ということばに対する語り手ないし書き手の無自覚なイメージに頼りすぎているためではないか、とおもいます。もちろん、「あたし」一人称で書かれたこの小説がその無自覚なイメージにより作られているとも読めないこともないですが、そうであるならばそのイメージが形成される過程をアイドルになる前にまで遡って掘り起こす必要があります。「アイドルではないあたし」から見たアイドルの世界が、もしかしたらアイドルというとくべつや、アイドルという平凡についての重大な示唆を持っていたかもしれません。また、エピソードとエピソードのあいだを「よく覚えていな」かったり「忙しかった」りして省略しているのも短編としての凝縮力を欠き、あまりよい書き方とはいえません。
特別という平凡さについてを真摯に取り上げ続ける作家としておもいつくのが、舞城王太郎や最果タヒです。
両者には特別のなかにある平凡さ・ベタさについての強い自覚があり、それをことばや物語を使ってていねいに紐解いていく手つきがみられます。舞城王太郎は恋や死生観、表現することなど古くから書かれ続け「古典化」した事象について、それらが描かれる構造まで利用しながらテクニカルに小説として昇華させています。最果タヒはことばとことばを激しく衝突させ、とりわけ感情に焦点をあてながら、従来語り伝えることにより切り捨てられてきた〝語られなかった感情〟へと目指して対象を解体していく書き方をしています。
両者はとくべつさよりもむしろ〝平凡さ〟から表現をスタートさせ、そこから〝とくべつさ〟を見出そうとする意思があり、作品がもつ新鮮さはそこに由来しているのではないかとぼくはおもいます。あるいは逆に考えることもでき、草野原々『最後にして最初のアイドル』では、一般的にアイドルに対して想起しうる「とくべつさ」を過剰に加速させ、宇宙規模にまで肥大化させるというアプローチをとっていて、現代のアイドル小説を語るうえでは無視できないものだと言えます。
最後に、最果タヒの第二詩集『空が分裂する』のあとがきにはこんなことが書かれているので引用します。
常に思っていたことがある。
わかりあうことは、気持ちが悪い。そんなこと。常に、本当に常に、思っていた。青春時代にみんなで、ナルシストとか、イタイとか、不思議ちゃんとか、中二病とか、言い合って、個性的にならないように毎日牽制しあっている、そういうのを見て、ああ、こうやって平凡な人間は量産されていくのかと考えたりもしていた。みんなと違う、自分だけの特徴を、恥ずかしいものとして隠していくことが彼らの処世術で、平均的でみんなと同じ人が偉いんだと当たり前に考えていて。ばかみたいだ。それは偉くなったんじゃなくて、「無」になっただけだ。誰にも見えなくなったから、嘲笑われなくなっただけだよ。そう、私は言いたかった。なんにもおもしろくない、これじゃあ、きみたちがこんなにたくさん教室にいる意味がない、きみの気持ちをだれかが全部共感できるなら、きみなんていなくてもいいってことだ。
(最果タヒ『空が分裂する』)
対象を立ち上げる無意識に目を向けてみてはどうかな、とおもいました。
【38作目】ARiA(蒼弐彩)/距離を書く
J. M. クッツェーは『エリザベス・コステロ』という連作短編集を世に出しています。これは作家エリザベス・コステロを通して見るクッツェーの文学論として読むこともできるものですが、最初の短編において「小説とは遠くへいくこと」という旨の記述があったような気がします。ちょっといま、手元に本がないので確認できませんが、AからBへの跳躍を実現させる技術がそのまま作家の技量になる…という考えがふとぼくの脳裏を過ぎりました。
そして実際に「距離」が大きな問題として浮上する作品は非常にたくさんあります。
そのなかでも恋愛小説はAとBをそのまま登場人物に置き換えたときに生じる距離を語る物語、という構造を有しているとも解釈できるのではないでしょうか?(A,B)のセットを(男,女)、(男1,男2)、(女1,女2)ととるのが一番単純で、組み合わせ次第で現れる距離は性質も含めて大きく異なり、直線が2点を結ぶ最短の図形とは限らなくなってくる。いわば、恋愛という空間の幾何学は「わたし」と「あなた」によって規定され、この作では(人間,機械)というセットによって生じる距離の描き方がもっとも重要になるのではないか、と感じました。
物語じたいはシンプルです。語り手である人造人形が、開発者の実の息子を待ちながら、かれが残したメッセージを読み解く。そしてそれを読み解いたとき、かれが迎えに来てくれるというお話です。
この小説で特に気になったのが、「人間」と「機械」の距離が近いにしろ遠いにしろ実質的に描かれていないことでした。特に序盤ではルビを伴う「いかにもSF」な語彙が多く使われていますが、語り手であるARiAのものの感じ方や認知様式、速度は人間とほぼ変わらないように感じます。また、最後の暗号の解答にもある「三年間だけ待ってくれ」についても、人間基準の時間感覚が暗黙のうちに了解されているようにかんじました。人造人形という表面上のかたちは人間との異質さが書かれている反面、その内側にある「ありかた」というべきものにほとんど差異が見られず、(人間,機械)の心の交流を扱うオリジナリティが活かせていなかったようにおもわれました。
この作品の完成度を左右したのはやはりアイラから渡された暗号だとおもいます。この暗号がどれくらいの規模のデータ量で、ARiAは1秒間にどれくらいの演算を行い、どれくらいの時間をかけて解いたのか。解読に時間がかかるならなぜか? それを具体的に描出できれば、おのずと機械だからできる思考や機械だからこその感覚が現れるとぼくは感じました。もちろん、徹底的に人間に似た存在として人造人形を書いてもよいわけですが、序盤でSF的語彙をたくさん使って人間との差異を示しているだけに、人間と似ているにしろ似ていないにしろ、ここはもう数歩踏み込んだ記述があってしかるべきでした。ARiAとアイラの距離がこの暗号のなかに象徴化されると、短編としての鮮やかさを出せたとおもいます。
これまでにWEB小説批評で参照した作品・文献リスト
▪︎上田岳弘『ニムロッド』
▪︎田中慎弥『冷たい水の羊』
▪︎塚原史『ダダ・シュルレアリスムの時代』
▪︎上妻世海『制作へ』
▪︎吉村萬壱『クチュクチュバーン』
▪︎エイモス・チュツオーラ『やし酒飲み』
▪︎ジェシー・ケラーマン『駄作』
▪︎グレッグ・イーガン『白熱光』
▪︎フィリップ・K・ディック『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』
▪︎スタニスワフ・レム『完全な真空』
▪︎スタニスワフ・レム『虚数』
▪︎貴志祐介『悪の教典』
▪︎J. L. ボルヘス『七つの夜』
▪︎Key『AIR』
▪︎Key『Kanon』
▪︎Key『CLANNAD』
▪︎Key『リトルバスターズ!』
▪︎朝吹真理子『流跡』
▪︎朝吹真理子『きことわ』
▪︎朝吹真理子『TIMELESS』
▪︎イタロ・カルヴィーノ『アメリカ講義』
▪︎クロード・シモン『農耕詩』
▪︎町屋良平『1R1分34秒』
▪︎サミュエル・ベケット『マロウン死す』
▪︎フィリップ・K・ディック『VALIS』
▪︎阿部和重『アメリカの夜』
▪︎フリオ・コルタサル『悪魔の涎・追い求める男』
▪︎大滝瓶太『青は藍より藍より青』
▪︎トマス・ピンチョン『LAヴァイス』
▪︎ロジャー・D・アブラハム編著『アフリカの民話』
▪︎イタロ・カルヴィーノ『なぜ古典を読むのか』
▪︎フランツ・カフカ『変身』
▪︎紅野敏朗他編『日本近代短編小説選 昭和編1』
▪︎アリ・フォルマン『戦場でワルツを』
▪︎ジャン=リュック・ゴダール『勝手にしやがれ』
▪︎内田百閒『件』
▪︎ジェイムズ・ジョイス『死者たち』
▪︎ヴァージニア・ウルフ『ダロウェイ夫人』
▪︎ハン・ガン『すべての、白いものたちの』
▪︎フィリップ・ロス『ダイング・アニマル』
▪︎八島游舷『天駆せよ、法勝寺』
▪︎トキオ・アマサワ(現アマサワトキオ)『ラゴス生体都市』
▪︎大前粟生『私と鰐と妹の部屋』
▪︎グレッグ・イーガン『ディアスポラ』
▪︎柴崎友香『わたしがいなかった街で』
▪︎円城塔『Self-Reference Engine』
▪︎樋口恭介『構造素子』
▪︎多和田葉子『かかとを失くして 三人関係 文字移植』
▪︎酉島伝法『皆勤の徒然』
▪︎山本浩貴『Puffer Train』
▪︎河合隼雄、村上春樹『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』
▪︎ドストエフスキー『悪霊』
▪︎舞城王太郎『淵の王』
▪︎円城塔『BOY’S SURFACE』
▪︎早稲田文学増刊号『「笑い」はどこから来るのか?』
▪︎赤坂アカ『かぐや様は告らせたい』
▪︎グレッグ・イーガン『ゼンデギ』
▪︎スパイク・ジョーンズ『her/世界でひとつの彼女』
▪︎川原礫『ソードアート・オンライン』
▪︎ニトロプラス『STEINS;GATE』
▪︎ニトロプラス『君と彼女と彼女の恋。』
▪︎シャフト『魔法少女まどか☆マギカ』
▪︎ジョージ・オーウェル『1984年』
▪︎藤沢数希『ぼくは愛を証明しようと思う。』
▪︎ジョナサン・スウィフト『ガリバー旅行記』
▪︎J. M. クッツェー『エリザベス・コステロ』
▪︎舞城王太郎『好き好き大好き超愛してる』
▪︎最果タヒ『空が分裂する』
▪︎最果タヒ『かわいいだけじゃない私たちの、かわいいだけの平凡。』
▪︎草野原々『最後にして最初のアイドル』
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