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傲慢と謙虚さ

最近「謙虚な」という言葉を耳にしたとき、ふと思った。私がいつの間にか失くしてきたものだと。

少し前、人から「昔はもっと天真爛漫だったのに。」と言われたことがある。自分でもそう思った。昔は人が好きで、それで福祉の仕事をしようと、高校卒業からずっと介護の仕事をしてきた。それなのに今は・・・。

はっきり言って人が怖い。人が好きではない。安心する人とだけしか関わりたくない、そう思っている。職場でもそうだ。私は若い頃、年上の先輩たちに親切に、友達のように上も下もなく優しくしてもらった。だから自分が先輩の立場になった時は、楽しく優しくしてあげよう、と思っていた。

けれど現実は違った。

家を出て1年間は福祉から離れていたけど、元の会社から声がかかり、障がいのある子の部門を引き受けることになった。新しい人間関係のスタートだった。この頃からすでに私の敏感センサーはビンビンに過敏さを増し、スタッフに少しでも攻撃的な人がいると、拒否反応を起こすようになっていた。けれど日々の激務の中で、目の前の仕事をこなすことに精いっぱいで、夜中まで残業の日々。

そのスタッフが、頼まれたことをうまくできないと「システムが悪いからだ。」などと逆切れして怒ってくるから、その人の分まで引き受けてますます忙しさが激化していった感じだった。

立場上、その人を(攻撃的でも)なんとかしてあげなきゃ、と1時間も2時間も話を聴いてあげたりしたけど、その人は「どこへ行ってもうまくいかない。」と悩んでいた。私が優しく受け止めて、その人ができる範囲でできることをやらせてあげる、なんて心の余裕は私にはなかった。

攻撃的な雰囲気をいつもかもし出され、(今思えば、その人はそうやって自分を守っていたのだろうね)スキあらば私を責めてくるような人といるだけで、苦しくて苦しくて、一緒にいることがとても辛かった。

この頃からトラウマ的な症状が出ていたのかもしれない。

「謙虚さ」という言葉を聞いて、〝そうだよなぁ、私それ持っていたよね。でも今は私は傲慢だ”と感じた。

その攻撃的な人は結局仕事を辞めていなくなった。すると今度は、次に少し攻撃的だと思っていた人が気になりだしたのだ。怖いと思う人が代わった。大きく影響を与えていた人がいなくなると、次は小さい影響ですら辛くなっていた。大きな虫歯を治療したら、今まで痛くもなかった小さな虫歯が痛くなる、それと似ている。

私は目の前のその人の雰囲気で「安心できる人」と「安心できない人」がすぐわかる。私の敏感センサーは、きっと人の何倍も察知してしまうほどの鋭利なものだろう。「信用できない。安心できない」と認知されると、その人に対して拒否反応が起こる。私の世界の中に入れたくない、と全力で拒否してしまう。仕事の1つ1つ大事な仕事、それを信用できない人にはあげたくない!と思ってしまうのだ。その人には何も頼めなくなって、その人はやることがだんだん無くなっていってしまう。

私はかつて先輩がしてくれたように、優しく和気あいあいとはできない。本来ならスタッフにうまく動いてもらって仕事を上手に回していかなきゃいけないのに、攻撃的な人は信用できない、何も頼みたくない!って思うこんな傲慢な感情に、随分と長く悩まされた。

最近気づいたことは、私の傲慢さもあったけど、相手本人の問題もある、ということ。なぜそれに気づいたかと言うと、1年前に求人を見て来てくれた人が、仕事の上で丁寧な報告や相談をしてくれるとても信頼のできる人なのだ。仕事も安心して任せられるし、何より安心できる。

私は敏感さも半端ないけど、人を信じて仲良くなる力は確かにある、ということを思い出させてくれた。安心できる人って、みんな繊細で気遣いのできる優しい人だ。人を攻撃なんてしない。

私もそうだったはずなのに。私はいつの間にか攻撃的な人になっていた。その人が夫のように攻撃してくるのではないか、と勝手に身構えて攻撃される前に攻撃してしまっていた。攻撃というか全身で「近寄らないで。出て行って!!」と拒否していた。

それは怖いから。少しでも自分が傷つくのは耐えられないから。

「謙虚さ」とはほど遠いところを、家を出てからずっと歩いてきた。

今年の私の目標は「私を助ける」だ。



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