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安心できる人だけに囲まれたい
DVから家を出たときに、「これからは安心できる人だけに囲まれる」と決意した覚えがある。はっきりとそう思っていた。
でも働いた先で、攻撃的な人がいると全力で向かわなきゃいけなかった。逃げるに逃げられず、怖いと思いながらも向き合うしかなかった。
怖い。もうどんな人も怖い。無意識の中で誰のことも信じられずにいた。ほんの少しの攻撃性を感じてしまう鋭さが自分にはあった。
「安心できる人だけに囲まれたい」それが私の目標であり、願いだった。攻撃的な人を自分の世界から追い出したいがために、自分が攻撃的な人になっていくようだった。親切にしてあげなきゃ、と頭では思っていても、心が「全拒否」して、少しの受け入れも許さなかった。信じられない人は私の近くに置きたくないって。嫌なものは嫌だ。
こんな私は、人として失格なのではないか。傲慢な人だ。こんな些細なことでも人を拒否してしまう自分は社会不適応だ、と随分と悩んだ。
最近気づいたことがある。その攻撃的だと思っていた人達は、仕事やコミュニケーションがうまくできない人達だった。仕事も長続きせず、あちこち転々としている人達だった。あちこちで叱られ、卑屈な思いをしてきたことで、潜在意識の部分で身を守るために、攻撃的な雰囲気をかもし出していたのだ、と思った。
そう、私のように。
私はその人に攻撃されているわけではないのに、敏感すぎてその人の意識の奥にあるものまで、読み取っていたのだろうと思う。
今ならわかる。
結局、その人達は次々と職場を去り、新しく入社した人が、息子の歳くらいの若い人なのに、しっかり気遣いのできる仕事のできる人だった。優しい人と出会えたのだ。信頼できる新スタッフには、安心して仕事を任せられるし、リラックスして意見を交わすことができる。心から安心でき、呼吸をするように一緒に過ごせるのだ。
私はずっと願っていた安心した人達に囲まれた環境をやっと手にしたのだ。のびのびと自分を発揮し、リラックスしているのが自分でもわかる。
そんな時、大きなトラウマの波に襲われた。
お世話しているまだ小学生の子の目を見た時に、怖いと思ってしまったのだ。そして大きな発作が起こってしまった。
私が私でなくなっていく感覚。愛情を注いできた大事にしてきた職場が、子ども達が、安心できる場ではなくなった。一瞬にしてなくなってしまったのだ。
なぜ今?
なぜ、また蒸し返すようにこの怖い感覚に襲われなきゃならないの?なぜ、また大事にしてきたものを手放すことになるの?子どもが怖くてお世話ができないなんて「仕事人」として失格だ、と仕事を辞める覚悟をした。
安心したから。心からリラックスしたから、トラウマが大きく出現したのだと思う。そう思う。1番の本質のトラウマと対峙できる時がきたのだ。トラウマを直視することは、本当に辛い作業だ。発作が起きると自分ではどうしようもなくなる。せっかく1日1日積み上げてきたことが、ガタガタと音を立てて全部崩れてしまう。自分が自分でなくなってしまう。自分がトラウマ一色になってしまう。
回復の道を行くためには、この道を通らなきゃいけなかったと、つくづく感じている。