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受動/能動の境界線から離れて

2022年10月12日のツイートより

「語るからだ」vol.2 を昨日、盛況のうちに無事、終えました。正直、人が集まるのか当初は心配だったのですが、結構俳優さんの中にも自分のからだを見直したい、発見を得たい、という願望は強くあるようで企画としては間違えてなかったのかな、と。概ね、好評をいただけたようでしたし、休みを挟みつつ月1ぐらいで続けられたらいいなー、と片山さんと将来を展望しております。今回は、満員で参加できなかった、てな方も続報お待ちください。 きっとまたやりますでよ。

WS中の片山さんの話を聞いていて思ったことですが、やはりダンス、からだの分野でもお互いに影響を与え合う、受け取り合う、ことがものすごく大切になってくるようだ。この相互性の問題を考える際に重要なのは、主観/客観という二項対立をどう崩していくか、能動/受動をいかにフラットに繋ぐか。

演劇はダンスに比べると言語の要素が明らかに大きいので、パフォーマンス時に能動/受動が分かれて意識されやすい。単純化して言えば、台詞を発している際には能動、聞いている時には受動、といったように。もちろん、そんな区分けはいつでも流動的なもので、曖昧であるべき境界だ。台詞を聞いている側の態度がコミュニケーションの主導権を握る場合だってあるだろうし、台詞を発しつつも何かを受け取り続けているはずだ。そもそも、私達が生活をしているリアルな状況において、言葉を発する時間と聞く時間は、台詞に書かれている時ほど明確に分けられてはいない。台詞を発する時に俳優からリアルさ、生活の文脈、が失われることがままあるが、その原因のひとつはこれだ。能動/受動がはっきり分かれてしまい、台詞を発する時には受けとらず、聞いている時には発信していない。生活においてはそれらの行為、コミュニケーションの時間は渾然一体として存在しているはずなのに。

からだ、というアプローチをうまく利用して、能動/受動の境界線をぼかすことができないか? これがこの「語るからだ」WSの主眼のひとつになっていくだろう。からだを元に考えれば、触れ合う、ということの相互性はいつでもごく自然なことであり、影響はいつも与え合うものとして認識され、易い。演劇においてもちろん言語は決定的に重要な要素だが、だからこそ、言語が生まれる以前に遡って考えることが大切だ。それはからだであったり、状況であったり、時間、空間、そして、相互性、他者の影響であったりする。言葉に先立つ感覚を、台詞をもらうと俳優は簡単に忘れてしまう。

とはいえ、台詞というもののインパクトは強烈だから、それも当然とは言える。言葉に先立つ感覚を、忘れてしまってもいいことにしよう。あとで、忘れたことに気づこう。忘れてしまうことを予想して、思い出すプロセスを学ぼう。そのために、身体感覚がいる。からだへの知識、慣れ、親しみがいる。台詞を、言語を使用する演技でも、からだの感覚を使って能動/受動の境界を越えられるように。相互性の中で演じられるように。それが達成された時、おそらく、自然と演技には即興性が生まれてくるだろう。動かされて、思わずやってしまった、という要素が絶えず演技に紛れ込んでくるのだから。

多分、哲学者の國分功一郎さんが中動態ってなことをずっと強調しているのは、そういった相互性、即興性、を孕んだ状態の大切さ、有効性を主張なさっているんだと思う。学びを深めていってそのあたりの思考と演技についての思考とを接続できていったらいい。

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