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不安の渦中にいる人間たちの運命劇

 ノーベル文学賞と聞いて、多くの人が思い浮かべるのは「今年も村上春樹は受賞しなかった」というニュースだけだろうか。実際、毎年ノーベル賞ウィークの中だるみのようなタイミングで発表される文学賞は、決定前の方が決定後よりもはるかに盛り上がっているような印象を受ける。そして翻訳大国と呼ばれた日本もはるか遠く、今では邦訳も作家紹介もない「見ず知らずの作家」たちがノーベル文学賞を受賞することも多く、そうした意味ではせっかくの文学賞にあやかりたい書店員さんたちも苦虫を噛み潰しているのではないだろうか。
 もう既に忘れた方も多いかもしれないが、2023年のノーベル文学賞受賞者は、「イプセンの再来」、「21世紀のベケット』と目される、ノルウェーの劇作家であるヨン・フォッセだ。受賞発表からわずか2ヶ月後の2023年12月、近年稀に見るスピードで翻訳された彼の『だれか、来る』(ただしドイツ語からの重訳。また、原著は1996年)という作品は、フォッセの最初の戯曲にして、文字通り20世紀最後の不条理文学とも言うべき作品である。

『だれか、来る』著者:ヨン・フォッセ 訳者:河合純枝|四六版 1頁 定価2530(税込)白水社刊(本書にはフォッセのメランコリックなエッセイ「魚の大きな目」も併録されている。

 本作のあらすじを説明すれば、その理由を一瞬で理解できるだろう。「一組の男女が辺鄙な場所に家を買ったのだが、その持ち主の孫と名乗る男がやって来てしまい、その後また来るのではないかという不安に悩まされる」。ただこれだけの話だ。ただこれだけの話が、とてつもない文学的うねりを生み出す。
 彼と彼女、そして男という名前が欠落した3名の登場人物、言い換えれば抽象的な語り手たちは、どこの誰にでも置き換え可能な存在ではあるが、交換可能であるがゆえに普遍性があるのだとフォッセは述べる。そうした意味では、この物語は不安の渦中にいる人間たちの運命劇とでも言えるだろう。不安を感じる彼に対し彼女は説得し続けるのだが、それでも男はやって来てしまう。交わす言葉は重々しいのだが空回りしており、それゆえに不安の運命から逃れることができていない。フォッセが私淑するドイツの哲学者ハイデガーの用語をあえて用いるならば、本作は現存在の無意味な踊りであり、共同存在の頽落の一形態たる空談劇の一種であると言えるだろう。
 最後に、本作を読む上で重要な視点として、「家」という主題について、他の不条理文学作家たちならどう書くだろうかと想像すると、フォッセの異質さが改めて際立ってくる。来ない誰かを待ち続けるベケットに対して、フォッセは家に誰かが来て、また来るのではないかと不安がる様子を描く。安部公房なら男女が奇妙な同棲生活を始め、何故か家から出られない話を書くだろうし、カフカはそもそも男女が家を買えない話を書くだろう。カミュは少し難しいが、買った家に関心を失い早々に出て行ったりするのではないだろうか。サルトルならどうか、あるいはデュラスなら? これらはあくまで私の私見だが、男女という二者関係に正しく第三者がもたらす不安を導入したのがフォッセである。彼の作品のさらなる翻訳が待たれるところだ。

                   山下泰春(やました やすはる)


ヨン・フォッセ(Jon Fosse)、1959年ノルウェー西部ハウゲスン生まれの詩人・劇作家。ベルゲン大で哲学と比較文学を学ぶ。1983年に小説『赤、黒』で作家デビュー。この頃からノルウェーの公用語の一つであるニーノシュクでの執筆を行う。1996年に本作『だれか、来る』を発表し、世界的な劇作家として地位を確立し、「欧州で最も多く上演された現代劇作家」とも称されるようになる。2023年にノーベル文学賞を受賞。本書が初の邦訳書となる。


山下泰春:1992年生まれ。 編集者・翻訳者。 大阪大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得退学。 元々の専門は戦後ドイツ思想だが、 現在はイプセン以後のノルウェー文学を独自に研究している。
主要論文に「戦争にとって言語とはなにか― ツェラン、エーヴェルラン、ザガエフスキー」(『アレ』Vol. 12,2022)、翻訳論文に「 ノルウェーにおける自由主義の歴史」(オイスタイン・ ソーレンセン,大谷崇・山下泰春共訳『人文×社会』第8号,2022)など。

編集部より
「第2回 北欧文学散歩+北緯55度以北を読む」、いかがでしたか。北欧文学に詳しい山下泰春さんの案内で、あまり日本では馴染みのない北欧の作家や文学作品を皆さんに楽しんで頂けたらと思います。北欧文学が日本社会でより身近になることを願っています。

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