やりたいことは、やっておけ
久しぶりに、風邪をひいた。
前回、風邪をひいたのはいつだっただろうと思い返してみたら、コロナ禍の前だった。ということは、私が風邪をひいたのは約5年ぶりということになる。
最初に「あれ?なんかおかしいな……」と思ったのは、鼻水が止まらなくなったことだった。私は、少し鼻炎気味で、季節の変わり目などにはくしゃみが止まらなくなることがある。だから、このときの鼻水も「鼻炎のせいかな?」くらいに思っていた。
ところが、である。1~2日後に、体中の筋肉が痛くなった。
「これはヤバい。久しぶりに風邪ひいたかも」と、ようやくそこで気がついた。体温計で体温を測ってみると、37度を少し超えていた。幸いなことに、高熱というほどでもなかったから、まぁ、たいしたことはないだろう、とタカをくくっていた。でも一応、その日は解熱剤を飲んで、早めに寝た。
思ったとおり、翌朝は筋肉の痛みがなくなっていた。熱を測ったら、36度台に下がっていた。
「ほら、大丈夫」と、自分に言い聞かせて、その日は普通に仕事をした。といっても、取材のように外へ出る仕事ではなく、原稿を書く仕事だったのは幸いだったと思う。
その日、夜まで仕事をしたら、なんだかまた、体中の筋肉が痛くなってきた。熱を測ると、再び37度台に上がっていた。
「ああ、これはいよいよヤバい」と思って、その日も解熱剤を飲んで、早めに寝た。
それからしばらく、筋肉の痛みや、頭がボーッとすることが続いた。私はできるだけ外出せず(そんな元気はなかった)、人にも会わず、ひたすらにあたたかいスープなどの流動食を食べ、薬を飲み、睡眠をとった。
2~3日後には、少し体のだるさはあったものの、外出しても平気になった。しかし、どこへ行くにもマスクは欠かさず、人に会うときも、できるだけマスクをつけたままで話をした。みんな、コロナ禍を経験しているからか、私がマスクをつけたまましゃべっていても、何も不思議には思わなかったらしい。
そうして少しずつ、私の体は回復し、約2週間後にはすっかり元どおりの生活を送れるようになった。
しかし、しかし、である。
約5年ぶりに風邪をひいて、しかも完治するまで約2週間もかかって、私はつくづく思ったことがある。
「やりたいことは、できるうちにやっておけ」
風邪をひいてから、完治するまでの2週間、私はやりたいことが何ひとつできなかった。
大好きなお酒が飲めない。
行きたかった飲食店にも行けない。
食べようと思って買っておいたお惣菜をムダにしてしまった。
料理しようと思って買っておいた食材をムダにしてしまった。
体力がなくて体がだるく、ゆっくりお風呂に入れない。
頭がボーッとしているから、本も読めない。
見たい企画展があったのに、美術館に行けなかった。
紅葉がきれいな時期なのに、見に行けなかった。
パッと思いつくだけでも、できなかったことが、こんなにある。
体調を崩すということは、なんと時間のムダなのだろう。
5年ぶりに風邪をひいて、私は本当に心の底からそう思った。そして、普段、健康で元気なときには、こんなことは考えもしないが、50代の私は、これから「突然、体調を崩した」ということがなきにしもあらずなのである。
実際に、私よりもちょっと年齢が上の知り合いの中には、「つい先日まであんなに元気だったのに、入院した」だの、「急に倒れて、そのまま帰らぬ人となった」だのという話を、よく聞くようになってしまった。
そんなことになったら、それこそ、やりたいことができなくなる。
やりたいことがあるのなら、今のうちに、やっておかなくては。
そう思った私は、風邪が完治してから、いの一番にとある場所へ行った。
それは、お気に入りの居酒屋である。
その居酒屋では、寒い時期になると、1人用の鍋を出してくれる。1人用だというのに種類が豊富で、定番の湯豆腐から、きのこ鍋、ぶりしゃぶ、豚肉とねぎ、鶏肉とせり、鴨肉とクレソンなど、さまざまなものがある。
中でも、私が大好きな鍋が「牡蠣と白子、あん肝の鍋」である。
鍋の名前を聞いただけで、痛風の人は「オレは食えないなぁ」とため息をつく。そう。それほどぜいたくな、体に悪そうな(?)鍋なのである。しかも、入っている食材が食材なだけに、他の鍋に比べると値段が高い。だから、この居酒屋に行っても、しょっちゅう頼むわけではない。
しかし、風邪から回復した私は、思った。
あの鍋を食べたい。食べなくては。
そして早速、件の居酒屋へ行き、「牡蠣と白子、あん肝の鍋」を1人でつつきながら日本酒を飲んだ。
シメには牡蠣と白子、あん肝のうまみをたっぷり吸ったスープで雑炊をつくって食べた。
「あ~、しあわせ!これで、明日死んでも、悔いはない!」
すべてをたいらげて、思わず声に出して言った私に、居酒屋の店主がこう言ったような気がした。
「なに言ってんだよ。まだ死んでもらっちゃ困るよ」