桐野夏生 『日没』 岩波書店1800円+税(「本のメルマガ 2020年10月25日掲載)


 本作の舞台は、政府批判が封じられ、「ポリティカルコレクトネス」が極端な形で求められるようになった、近未来(現在?)の日本です。そうした状況にうんざりしている主人公の女性作家のもとに、ある日「文化文芸倫理向上委員会」(ブンリン)なる団体から、「召喚状」が届きます。レイプのような過激な描写が多く、不快感を与えられたというクレームが読者から寄せられたというのが、彼女の「罪状」です。ヘイトスピーチだけではなく、人に不快感を与える一切の表現が、いまや不法なものとなった。これが「ブンリン」の主張です。

 彼女は「ブンリン」が保有する、千葉の海岸地帯にある療養施設に収監されます。この施設には、多くの著名な作家たちが囚われていました。施設での生活は、過酷なものです。作家たちの誤った考え方を矯正されるために、「ブンリン」は、四六時中行動を監視し、違反者には厳しい処罰を与えます。そして「作文」を作家たちに課して、思想の矯正をはかります。作家たちの中で、従来どおりの著述活動に戻れた者は一人もいません。ここに収容された者は、「転向」しなければ「ブンリン」に殺されるか、自殺に追い込まれ他ないのです。

 人を喜ばす良い小説を書け、正しい考え方を身につけろという「ブンリン」に主人公は真っ向から反論します。人間の欲望や苦悩のすべてを描くのが小説だ。自分の書きたいことを書くのが作家なのだと。「ブンリン」の面々は、門外漢であるにも関わらず、「上から目線」で主人公の「作文」をあれこれあげつらうのです。アートの素養などまったくもたないであろう名古屋市長が、「不敬」な作品を含む「表現の不自由展」に難癖をつけました。学問とは無縁な新総理が学術会議の人事に介入してくる。そうした状況を彷彿とさせる描写です。

 施設のスタッフは、巷で「先生、先生」と持て囃されている作家たちに憎悪を抱き、彼彼女らを迫害するエネルギーに変えています。頑なに抵抗する主人公を「ブンリン」の面々は、施設に付設されている病院に送りこみます。「ブンリン」のトップの女医は、作家たちの「死後脳」に興味を示します。反抗的な脳の在り方を解明することで、作家たちのように、間違った思想を抱く人間を将来的に根絶すると。そんな野望が彼女にはありました。女医のたくらみに気が付いた主人公は、脱走の計画をめぐらし、実行に移すのですが、その首尾は…。 

 現在の日本は、「文化大革命」の途上にあるのかもしれません。芸術や学術研究の価値を権力者がきめる。「先生」と呼ばれる者への憎悪を抱く者たちが、権力者による学者や芸術家への迫害に拍手喝さいを送る。そして法の恣意的な運用で、権力に反対する者を排除する。「ブンリン」は、まさにこの国の縮図なのです。しかし、社会風刺に成功しているだけなら、小説としての価値は高いものではありません。人間のもつグロテスクな一面を鋭く抉り出す著者の手腕は、70の坂を超えたいまなお衰えてはいないのです。ぜひご一読ください。


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