人が人を殺す時
人を殺す時は盲目である。
それが私の実感だ。
手段、物理的な殺人の話では、ここでは人がその意志をどのように持ち、どのような心持ちで殺すことができるのかをしたためたい。
意志とは過去の切断である。(ハンナ・アレント)
まず、意志がどのように存在するのかを考えたい。ここでは、國分先生の中動態からの意志を採用したい。意志とは、現代では能動的にはたらいた時に発生するものだとされています。(現代の「責任」はそこに集約されています。)意志という概念が生まれたのは、権利、利益、そしてその責任を考える際に押し付けやすいからです。(〈責任の生成〉という國分先生と熊谷先生の本でその責任の先の詳しいことを話されています。)
トラウマが大きいほど、人は決断することができ、破滅に向かうことができるのかもしれない。
カミュの異邦人(ムルソー)がアラブ人を殺したのも、太陽の光がまぶしかったから。最終的には一時的に盲目となったからである。
また、シルベスター・スタローンのランボーも、意志を持つことができているから(過去の切断ができるから)、殺すことができる。ひとたび、過去を思い出してしまう、人間的なパートになると酒を飲み、過去から逃げ出すのである。
意志があるから、責任を押し付けられ、苦しんでいる。自殺大国となってしまったからには考えないといけないのではないか。
意志の世界で生きていく最善を考えたのがニーチェの言う超人だったと思う。しかしニーチェ自身が超人にはなれなかった。
市井の中で意志や責任のあり方を考える人が増えてほしいと切に願う。
意志のある世界について批判してきた。
次に意志を持たずに生きることは可能なのか。と聞かれるであろう。
可能である。自分の身体を動かす際、ひとつひとつ意志を持っているだろうか。ご飯を箸で食べるとき、人差し指、中指、親指はここ、肩の筋肉をこう動かして…とやっていない。身体が半自動的にやってくれている。
(その究極が植芝盛平先生が作った合気道だと思う。いるべきときにいるべきところにいる。意志をもって行動を起こさず、いるだけで行動は終了している。私はこの精神に西洋のcalling(天職)を採用して行動しているつもりです。)
この身体的思考は養老先生や内田先生が折に触れて話されている。ぜひYouTubeでも本でも見てみてほしい。
けだし、苦しみが増えたのは、意志が出現し、いざるべきところにいる。が増えたのだと感じる。(ここもサルトルの自由の刑につながる。)
あきらかに危ない場所に行くような。訳もなく、車が来ることを検知できないのに車道で遊んでいる。そんな感じ。