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ほこりについて考えたこと/落下するもの
ほこりは、綿のようで、いつともなく生活の隙間にたまる。
ほこりは、石にもなる可能性を孕んでいるようでもある。
しかし、ついに石に至ることはなく、ひたすら、積もること、舞うことを目的とする。
ほこりは、空中で遊ぶ軽やかさがある。
ほこりは、単独で存在することはない。
ほこりには、同伴者がいる。
ほこりは飛び散る、粉のようなごみらしい。
ほこりは思いがけないところに誕生する。
ほこりは休息するのが得意だ。
もちろん活動することにも自信を持っている
ほこりが光を浴びる時、ほこりはその姿を明らかにする。ほこりを疎ましいと感じる時は、大抵、そういう時だ。ほこりは、その時、生命そのものになり踊り始める。
ほこりは、わたしたちから、常に身を隠している。隠れることで、ほこりとして積極的なエネルギーを保持している。
ほこりは、立ち昇るエネルギーであり、また、休息するエネルギーである。
ほこりは、降り積った時間が、姿を変えたもの、その時間の足跡である。
かって、「大ガラス」という作品に、ほこりを6カ月間溜まるままにしておき、そのほこりをニスで固めたのは、デュシャンだ。『埃の蒐集』と呼ばれている。
6か月という〈時間〉をデュシャンはニスで固めたのだ。
時間もニスで固めることができる。
この画集(わたしは、タイム ライフ ブックスの『The World of Duchamp』を見ている。)によると、
「絵具のチューブカラーからひねりだしたものではない。色彩を得るための方法だった。
とある。
ほこりは、色彩としてニスで固定化されたのだ。
ほこりは色彩に転用され、価値が見いだされる。
『埃の蒐集』は、じつはいたるところで行われている。しかし、粉のようなほこりも、粉も、いずれ分散してしまう。分散か、ニスで固めるか、お好み焼きにして食べてしまうかである。そうでなかったら、いずれは、風に紛れ込み、また、宇宙に紛れ込む。
粉も、粉のようなほこりも、常に、時間と戦っている。デュシャンは時間と戦うほこりの手助けをしたわけだ。
埃の部分をマン・レイが撮影した写真は月の表面写真のようである。
マン・レイの写真は、ほこりが降り積もった部分と、おそらくは、ほこりが被らないように覆った部分との対比が印象的だ。美しい衝突。
デュシャンは、ずっと「落下する」造形を、芸術のテーマにしてきました。
と、『構図がわかれば絵画がわかる』で、布施英利(ふせひでと)さんが言うように、〈落下するもの〉がデュシャンの造形の基本だとすれば、やはり
ほこりも、床や家具の表面に落下するものだ。なるほど、垂直線が表現課題だったんだと思う。
〈落下するもの〉としてのほこりが時間の経過を表現する。
姿を変えた時間がほこりとして現れる。
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