〈あいだ〉とか〈スキマ〉に眠るもの。
〈あいだ〉とか〈スキマ〉には、喪失感が眠っている。
そのつつましやかな喪失感を埋めるには、校庭の隅で拾った桜の葉っぱやタンポポの種、ミミズなどを机の中にしまうのがふさわしいと思う。
明日、母は冷蔵庫と食器棚のスキマにお盆をはさみ込むだろう。
喪失感を思い出すために日々誕生する〈スキマ〉。
日々消滅する〈スキマ〉。
〈あいだ〉とか〈スキマ〉には喪失感が潜んでいる。
コップに水を満たす。
満たされることで、コップはコップの存在を誇示する。
コップによって作られた宇宙の〈スキマ〉に水を満たす。
コップの水を飲むことは、宇宙の〈スキマ〉を飲むこと。
消費される宇宙。
食道を通過する宇宙。
美味しい宇宙。
〈あいだ〉とか〈スキマ〉とかについて、たびたび、考えたことがある。この前も、ネコちゃんについて考えていると、同じ言葉の〈スキマ〉が頭に登場してきたので、またしても、〈スキマ〉の周りをぐるぐると回るのかと、今回は、〈あいだ〉という言葉で、〈スキマ〉の濃度を薄めてみた。
〈あいだ〉というと、持っている本のなかに『間の構造』(奥野健男著)がある。文学における関係素という副題がついている。この本が出た当初、買って読んでいると、円形脱毛について書かれている箇所があった。その円形脱毛は、戦争が終わって虚脱状態になった時にできた、もう円形どころではない、頭部全体にかかわるような激しいものだったので、想像すると、先をどうしても読み進むことが出来なかった。なぜなら、当時のわたしにも、右側頭部に小さな初めての円形の脱毛があったからだ。しかし、ずーっと、そう思っていて、今、取り出して読んでみるけれど、どこを探してもそんな文章はなくて、どうしたことだと唖然としている。
もう、何十年も前に読んだ本の記憶は、あてにならない。時間は十分すぎるほど経ったから、円形脱毛はもう怖くない。長い間閉じられたままの『間の構造』を再び開こうと思っている時、あの円形脱毛の話はどこへ行ってしまったんだろうと、不思議な気持ちでいる。
モノクロの美しい箱に入っている『間の構造』。写真に撮って、表面の紙が剝がれていることに気がついた。