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赤瀬川原平の文章『オブジェを持った無産者』を読んでいる。2
少なくとも人間は重工業
付箋バサミの数だけ気になった個所はある。付け忘れていなければ。付箋バサミを確認しながら、言葉を2度味わう。
少なくとも人間というのは重工業だといえる。
人間と重工業の組み合わせは、何か気になる不思議な組み合わせだ。資本主義社会の象徴としての重工業、管理社会に組み込まれて、機械の一部でもあるような人間の在り方、プレスされた鍋にオブジェという称号を与えることのできる肉体も重工業のシステムの一部であるということだろうか。
また、重工業というと、岡本太郎の「重工業」という絵が頭をよぎってくる。「重工業」というタイトルは一度目にするだけで、忘れられない記憶になる。
我々はつねに横道を
「あまり話を本道にはそらさないように気を付けろ。我々はつねに横道を歩いているのだ。」
偶然に魅了されて、言葉を積み上げてきた赤瀬川文学にふさわしいキーワードになる言葉が、何とここに眠っている。横道を歩いて偶然を発火させてきたフレーズだ!
何と言っても、気になった言葉は、この横道(本道ではなく)という言葉だ。〈横道〉には、本道にはない、楽しそうな気配が漂っている。〈トマソン〉も〈老人力〉も〈2つ目の哲学〉も〈新開さん〉も、この横道から発見されたんだ。横道を行く極意がここにある。むしろ、横道でなくては発見できないシロモノだ、いや、ブツ、、オブジェ、、非意図的生産物。
この本、『オブジェを持った無産者』には、赤瀬川原平さんの過去と、なんと、未来もが含まれて、そのまま赤瀬川さんの細胞と化している。『オブジェを持った無産者』がその細胞の源流、ここを探れば、あなたの好きな赤瀬川原平の片鱗を見つけることが出来る。
ニセ札とは、出来る限りの相手の本物になり変り、額面上は本物としての顔をもって、本物の間をくぐり抜け、使用されていくものであり、一方模型とは、最初から本物とは異なる顔を持ち本物に対比して置かれるものである。
いわば桐の木で作ったドスのような物だ。無用の長物であり、白々しい飾り物である。道路の鋳型に変わる千円札の鋳型であり、何のサービスもされないまったくの事実の展示である。これが二百倍のコピーの千円札と違う点は、増量という型の模型であることだ
いわば桐の木で作ったドスのような物だ。無用の長物であり、白々しい飾り物である。何のサービスもされないまったくの事実の展示である。
2度繰り返してしまった。桐の木でできたドス、無用の長物、事実の展示とか、この辺りの文章が大好きだ。無用とくれば、無用(用の美ならぬ)の中に美を見るトマソンに通ずる道がここに敷かれているのを発見する。事実の展示であるトマソンという、新しい美の概念に更新する模型の原点をここに感じ取ることが出来る。
トマソンのわび性
日本のわびには、不足の中に美を見出すという日本古来の美的概念が根元にある。失ったものに対する何か、愛情のようなものが感じられる。何かを失っていても、何かが欠落していても、よしとする潔さの中から、新しいものの見方をするという思考の変換力、思考する不思議さを、面白さを感じ取ることが出来る。思考の柔軟体操を楽しむ、2重3重になった立体思考だ。超芸術としてのトマソンには、同じような〈わび性〉があるように思う。トマソンはいまを生きる人の〈わび〉である。一見、〈わび〉は、古い概念のように思えるけれども、〈わび〉は気が付けば、すぐそこに転がっている。トマソンという造語によって、超芸術を見出した視覚の達人が教えてくれる無用の長物たちは、新しい言語活動でもって息を吹き返してくるのだ。
トマソンとダイオキシン
トマソンとダイオキシンは非意図的生産物という共通項を持っている。突然ダイオキシンってなんだと思われるかもしれないけれど、昔、そんな風に考えたことがある。21世紀の非意図的生産物、トマソンとダイオキシン。気が付けば、ソンとシンで、韻も踏んでいる。21世紀が生んだ天使と悪魔。天使のついてはもう証明済みであるけれど、ダイオキシンについてはより詳しい解明が必要だ。
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