何となくの感覚
理由は分からないけれど、なんとなく違和感を感じるものの中のひとつに、
「学校教育の中で、『国・数・理・社・英』を“主要5教科”と呼び、それ以外の音楽、美術、家庭科、体育などを“副教科”と呼んでいること」
がある。
美術や音楽系の学校の受験生は除くとして、多くの学生が、受験に利用される「国・数・理・社・英」だけを必死に覚えようとし、副教科と呼ばれるものは手を抜く。
何かおかしい、と違和感を感じてきた。
最近では様子も変わってきているかもしれないけれど、中学、高校の学校教育の場では、「国・数・理・社・英」の教員だけが受験生の担任になれる流れがあるようで、私の目にする地方ではその名残が大いにあるように感じる。どうして??
実際、保護者のなかでも、受験時の担任が副教科の担当教員であることが納得いかない、というママ友の話をよく聞いた。
これも、私の中では、なんかおかしい。
何となく私は、受験対策専用の学習塾というものに抵抗があって、我が子をそこへは行かせたくなかった。
ただ、ピアノ、絵、ダンス、スポーツをやってみたいと子どもが言い出した時にはチャレンジをさせてきた。
数か月前、NHKの「ヒューマニエンス 40億年のたくらみ」で、「“天才”ひらめきのミステリー」の回を見た。
自分が何となくそう思ってきたことを、理由付けしてくれている内容だったので、NHKオンデマンドで、途中一時停止をして気になるフレーズを書き留めながら、何度も見返している。
ゲストは、将棋の田中寅彦九段プロと、脳を専門に研究している田中啓治先生。
田中啓治先生は、将棋のプロとアマチュアに詰将棋の問題を解いてもらい、その際の脳の使われ方をMRIで科学的に読み解いていた。
思考に使われる脳の部分は大脳皮質であり、アマチュアが回答するときには大脳皮質が使われている。
天才と呼ばれるプロが回答するときには、大脳皮質に加えて、大脳基底核が活動しているそうだ。大脳皮質で複数の選択肢が考えられ、それがいったん大脳基底核に送られ、大脳基底核が瞬時にその中から最良の一手を選択し、それがもう一度大脳皮質に送り返される。プロの脳内ではそれが瞬時に行われ、そしてそれが直感と呼ばれる。
大脳基底核は、動物的な脳で、爬虫類にもある発生的に古い部分である。
そして、田中九段プロの言葉の中に興味深いコメントがあった。
アマチュア将棋士の打つ手は、算数をしているような感じで、
プロ将棋士の打つ手は、音楽か美術をしているような感じ、という。
我が子を天才に育てよう、とか特段に意識したことはないのだけれど、単純に積み重ねだけを子どもに強要することが、彼らの中の何かを閉ざしてしまうような気がしていた。
自分自身も、自分が教育をされる過程で、頑張れば頑張るほど、何かを閉ざし、何かを失っていく感覚があった。
自分の子育てが正解なのかどうかは分からないけれど、自分の中の何となく、という感覚、大切にしたい。