私の半世紀・使命編

生まれたって、半世紀と半年。

使命、、、生き甲斐とも言うのか。命を使って事を為したいと思う事柄。

命を意識することが使命を意識すること。

日々自分の命を扱ってっていることに間違いはないけれど、それが私にとってどんな事か。

2歳頃の記憶は母のお腹に妹がいて、床に新聞を読んでいた母の横に一緒にくっついていた事。普段はあまり一緒にいた事のない父方の祖母が、お産の手伝いに、私の子守で一緒にいてくれたこと。散歩に行きながらいろんな葉っぱを見たり、月を見たり。「オーテーてえ、ツーナイデー、ノーミーチーをーゆーけ〜バー」という歌を繰り返し歌ってくれた。本当に手を繋いで歩いた記憶がある。

その2年半後、その下の妹が生まれる間近の頃、祖母はお餅を喉に詰まらせて亡くなった。母は、早産を恐れて式にはいかなかった。父は戦時中、父の祖母のお葬式に忙しかった母(この亡くなった祖母)が早くに産気づき今では保育器に入らなければならないほどの未熟児で馬小屋で生まれたらしい。母親のミルクを飲む力がなかったので、たくさんいた姉たちが、ヤギのミルクで世話をしたという。到底助からないと思われて、出産届も出さなかったらしい。半月ほど経って、まだ生きている!と、末広がりの8月8日に生まれたことにして、届けを出したという。

その父を産んでくれた私の祖母のお葬式に、黒い服を持っていなかったから一張羅の赤いスカートを履かされて行った。自分が浮いているのはわかっていたが、仕方ない。小さな折り紙に、従姉妹の代筆のお別れのお手紙を書き、棺に納めた。身近な人の初めての死。父は涙を見せなかった。それを見た私は死が悲しいものだと思えなかった。

その後少し大きくなって小学生の頃、近所のお母さんが3番目の子を出産時に命を落とし、赤ちゃんは助かった。私と一つしか違わないその長女の子は下の二人の子をずっと面倒よく見ていた。

高校2年生の時、小中学校の同級生が二人立て続けに事故と病気で亡くなった。彼らに最後に会ったときのことを考え、彼らの当然あるべきはずの未来がそこから忽然と消えて無くなってしまったことが信じられなかった。ご家族のことを思うと悲しすぎて、嗚咽を堪えられなかった。この時、生きるということは変化することだ、、、と勝手に私の中で定義つけられた。彼らは17歳で止まり、私は生き続けている。ただそういうことなのだと。

実は母の実家は曹洞宗のお寺だ。祖父が婿入りで、祖母の家のお寺を継いだ。週末遊びに行っては、お葬式、お彼岸、お盆などの行事、それらの言葉に慣れすぎて、お葬式まんじゅうやお菓子はいつも沢山お供えがあって、檀家さんはひっきりなしにお参りに来ていたし、祖母はいつもお茶を出していた。そして亡くなった人のことを話すのだ。

たくさんの水害、震災などで、多くの人が亡くなった。ビートたけしが、自分の母親が亡くなった時の悲しみ X 被害者の数 X 周りの人々の数で、その悲しみの大きさ、深さをテレビで語っていた。

この一年ほど、身近な人が急に亡くなった。コロナの始まる前の年末、娘の同級生のお母さん(私とほぼ同じ歳)で癌の闘病の末亡くなった。不幸中の幸い、コロナ前でみんなでお別れが出来た。その後3月半ばにコロナのパンデミック自粛制限を行っている矢先、伯父が亡くなり、知人のお嬢さんが二十歳前に亡くなり、お向かいさんのお父さんが亡くなった。近所のお婆さん、お爺さんが立て続けに亡くなり、そして生徒の奥様(介護中だったが)も亡くなった。

自分の命はいつまで、どこまで続くかわからない。その保証は全くない。

でも命に際限があることは認めなければならない。

30過ぎて結婚式間近にして、全身関節リューマチという免疫系の病気になり、体が動かなくなった。体の一部を動かすとそれと同時に動く全ての神経が激痛を起こすのだ。動かしたいけれど動かすと痛いから動かせない。結婚式の前後だけステロイドで普通に歩けるようにしてもらった。

実際は無理すれば立てたし、ゆっくりびっこを引いてっていけばトイレも行けた。すべて、スーパースローモーション。介護重度かなり上のお年寄りと同じ状態になった。介護を受けている人たちの悲しい気持ちもわかった気がした。結婚したばかりの夫の手を借りないで生きていきたい、、、という願いだけ。そして、彼のために家事の一つくらいできるようになりたいと。

幸い、化学療法が効いて半年ほどで自分のことは自分でできるくらいに回復できた。聞いた薬は女性ホルモンだったから、妊娠を勧められた。子供を産めば妊娠中は痛みはなくなる。そして出産後の回復確率は30%。元に戻るのが30%。悪くなるのが30%。賭けに勝った私は妊娠中から出産後、細胞組織が生まれ変わった。

音楽の演奏は身体の能力がなければ出来ない。それを無くしても音楽に携わるとしたら、言葉で伝えること、そして曲を作ること。体の不自由さを十分に知った私は、楽器を操る筋肉がある間は、演奏しよう。演奏できなくなっても、作曲をしよう。その時のために作曲の勉強をしよう。。。優先順位を決めた。

その人の生まれる瞬間と死の瞬間は自分で選べない。その人がお役目を果たすまで死は訪れないと思うし、その日を迎えるまでに、自分以外の人を幸せにすることはそんなに難しくない。赤ちゃんも笑顔を振りまき、自分のもらったご飯をほかの人にあげたがる。ただ一緒に「おいしいねーっ」て言いたいんだ。

使命が何かわからなかったら、身近な人が何を持って笑顔を作るか考えることから始めたらいい。そしてそのために自分の命を使おう。





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