重度知的障害を含む自閉症スペクトラムの大好きな我が子との生活を一言でいうと…
ポータレッジ。
私が救急車で搬送され、自宅で絶対安静にするとお医者様と約束をして、入院をせず自宅に(そた君のところに)帰りました。
私が搬送されたことは、そた君の心にショックを与えてしまいました。(それはまた明日書こうと思い中)そた君だけでなく、主人やそた兄にもショックを与えてしまいました。
心配する家族は、いつもは(訳あって)別々に食事をしているのですが、私が動いてしまう(家事をしてしまう)のを心配して一緒に食事をしようと、久しぶりに家族4人で食卓を囲みました。
が、久々に一緒に食事をするとなると、主人は戸惑うのです。そた君の前でどうあればいいのか、、ぎこちない感じ。主人になんて言えばいいのか、私も少し迷い ふと、「そたと一緒に居るイメージって、ほら、山登りで崖を登るのあるでしょ?その時に、崖にハンモックテントを張って食事をしたり寝袋で寝たりするじゃない?あの感じ。緊張する中でとても憩いの時間。多分それに似ていると思う。」と、伝えました。
私は登山経験が無いので、もしかしたら不適切な表現だったかもしれません。
ふと、思いついたイメージなのですが、私の中ではぴったしな感じ。
私はいつもそた君の緊張を感じてます。でないと、そた君のことが分からない。何で喜び、何が辛いのか、何が難しく感じるのか、何を伝えたいのか、、自分で言うのも何ですが注意深くそた君の緊張を常に感じとろうとしています。それは人から見ると、緊張した生活だと思います。けど、私がやりたくてやりたくてやってる事で、そういう中で十分安らげるし癒しも憩いも感じています。
でも、主人にはやはりそれは大変そうで、大変に感じているのが愛情が足りないとも思いません。
そのことで迷う主人には、「イルカが大好きな人が全員イルカの飼育員になるとは限らないじゃない?」と、言っています。これも、適切な表現ではないかもしれないけれど、側に居ないことが愛情が無いと言うのは幅がなさ過ぎに感じます。
でもそた君にとっては、常に側にいて自分を感じてくれる人が必要なのも確か。
歩み寄る速度・歩幅も人それぞれで、何とも簡単ではないけれど…
スパッと簡単に割り切れないこととか、歯痒いこととか、じっと見つめてゆくのが生きてる実感のような… 私は人生を楽しみすぎてるのかもしれない。。