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漫才のエッセンスを言語化してビジネスシーンに卸してみる。


帰省した実家でオカンが録画してたM-1グランプリを観た。全組面白かった。満足度高い。
界隈には、洗練された漫才を観て、「多分これってビジネスシーンでも活用できるんじゃないか〜」くらいにモヤモヤしてる人もいると思う。
そんな人たちに向けて、これまで社会人漫才に打ち込んできた私が、漫才のその仕組みを言語化してビジネスシーンに卸しておく。
ちなみに自分が営業・交渉・マーケティングメッセージなど「コミュニケーション」と呼ばれる領域でやっていることは、基本的に全部これだ。
年末なので奮発する。

まず人間にはコミュニケーション上抱えている矛盾がある。

基本的に心理本能的にはほとんどの人が「自分の話を聞いてほしい」と思っている。
これはホモサピエンスが「共感」されることで生き延びてきた経緯だからだと思ってて、話すと長くなるので割愛するが、これは間違いない。
だがいっさいの生命的な利益にもならないのに、他人の話をわざわざ聞くのに時間を使うことがある。
漫才がその典型例だ。

漫才ではオーディエンスはただ聞いているだけだ。
特に生命体としての人生にとって有益なものが詰まっているわけでもない、いわばただの与太話。
それでも時間を使って観て、満たされ、そしてまた観ようとする。

これにはまず人間が持つ二つの感覚が絡み合っている。

共感と発見だ。
・共感→「分かるわ、それ!」という自分の経験や感情に近い内容に触れる心地よさ。
・発見→「そんな発想があったのか!」という予想外の視点に触れたときの興奮。

この二つが絡むと、心に響く体験が生まれる。

ただ、話はシンプルではない。
これだけでは本来「生存のために、自分の話に共感されたい」人間が、ただ聞く側にまわる理由は語れない。

人はなぜ漫才を聞くのか。

結論から言うと、漫才がオーディエンスを笑いや感動を生む根底にあるもの、それは「錯覚」によるものだ。

少し詳しく説明しよう。

人間の思考の掘り下げにおいて、以下のような階層があるとする。

  • 1層目:表面的な会話。世間話やそのテーマについて誰でもできるような会話。

  • 2〜5層目:意見や議論が生まれる領域。だんだん深くなる。普段の生活(仕事も含む)の中で使う領域。(どこまで使っているかは、人によって違うが。)

だいたい人間は、この5層の中で思考を認識して生きていることが多い。

しかし、本当のところ、6〜10層目のさらに深い潜在領域を人間は持っている。ここには直感や感情、想像力といった未知の要素が眠っており、たまに脳内にパルス的に走るが、日常使いするほどの記憶化や言語化はできていないし、意識しないとしようとも思わない。

漫才は、この領域に触れる瞬間を生んでいる。

漫才では伏線となるフリのパートと、回収のオチのパートがある。

いわゆるフリのパートでは、共感できる日常ネタから始まり、彼らに安心感を与える。これが前述の1〜5層目の話だ。
オーディエンスは「自分と同じ世界だ」と思いながら笑い始める。(厳密にはこの時点でも小ボケ中ボケとして深い階層まで行っているが、複雑になるのでそれには触れない。)

そしてクライマックスで話が一気に展開し、予想を裏切るオチが炸裂する。
ここでポイントになるのが、優れた漫才はオーディエンスを5層目から一気に10層目に連れて行くということ。
この瞬間、オーディエンスはこう思う。

「たしかにそうだ、言われてみれば分かる!」

こうして漫才はただ笑わせるだけではなく、オーディエンスの潜在意識を揺さぶり、深い満足感を生む。

しかし、オーディエンスは気づいてすらいない。

この満足感の正体は「錯覚」によりもたらされている。


人間は10層目を提示されると、自分の認識していた5層目までを起点に、あたかも6〜9層目の階段を「自分で登ったかのように」感じる。

しかし、その実は階段ではなく、「エスカレーター」である。

10階層目に止まったが、6〜9階層目を自力で登ってきたわけではない。
もともと5層目までしか認識できておらず、6層目以降に存在するものについては認識できていなかった。
しかし、10層目を見せられることで人間はこう思う

「たしかに(自分も)そうだ、言われてみれば(自分が思っていたことかのように)分かる!」

このプロセスを「気づきのエスカレーター」と呼ぶ。
5層目以下にいたのに、知らぬ間に気付きのスカレーターに乗せられ、10層目に辿り着いた人間は、(10層目にいるのだから)当たり前のように6〜9層目を認識できる(ようになる)。
漫才ではその性質を利用し、1-5層目の後に「10層目への発見・共感」を提供することで、通過した6〜9層目を「自分で登った」と錯覚させるのだ。
10層に共感できたオーディエンスは、漫才師が言及していない6〜9層については自分で気付いたと思い、自分でも知らぬ間に(自分で考えついたと錯覚するのだから当然)6〜9層目に共感した状態になる。
そして10層目すら、9層目まで登った自分が漫才を見て到達した「自分も思っていたこと」であると再度認識する。「自分の考え」なのだから10層目への愛着も一層強くなる。
この一連の思考の濁流が一瞬の間に起きている。

こうして「ただ聴くだけ」の漫才が、「自分が他者に共感してもらうための『自分の考え』の発見」につながるので、心理本能的に漫才は矛盾しないものになる、ということだ。

そしてここまで読んだ感の良い人ならもうわかると思うが、
これこそが、漫才とビジネスを主戦場にして生きてきたが辿り着いた、漫才をビジネスに応用活用できるポイントになる。

たとえば営業のシーン。

1-5層目で顧客との共感を醸成しながら、気付きのエスカレーターに顧客をさりげなく誘導し、気づかれないように作動ボタンを押し、動かす。この一連のプロセスがフリだ。
そしてフリの後にはオチ。
インパクトのある10層目にあたる提案を提示し、発見(気付き)と共感を与える。
10層目に共感した顧客は、当然のように6-9層目も自分が共感しうるものと感じ、そして相手の口からは語られていない6-9層目を「自分の頭の中で考えた(考えていた)ことかのように」扱う。
そして9層目まで自分で発見・共感できたことにより、10層目にあたるあなたからの提案に一層愛着を持つ。

そして顧客はあなたにこう思う

「まさに、私が課題に感じていたことです」

ここまで読んでお気づきの方も多いかもしれないが、これはいわゆる「チャレンジャーセールス」手法とほぼ同じで、現代では科学されている最も効果的な営業手法の一つだ。
ただそれを漫才という人間の「認識」を血の滲む努力で研究する道の果てで成果を出す競技に重ね合わせると、こんな話になる。

若手で営業に初めて配属されたのに、「なんやかやたらと営業がうまい」というタイプの人は、この「認識」のコントロールが無意識にできていることが多い。いくら若手とはいえ侮れない。彼らの20数年の人生の中の積み重ねでたどり着いているのだから、営業初心者でも、爆発的な成果を上げることがある。

「いやいや10層目の訴求ありきやんけ!そんな共感されるボール投げれたら苦労しないわ〜」という人は危機感を持った方が良い。
本来企業のプロダクト開発や営業にマーケティングが必須な理由は、顧客(オーディエンス)と企業(漫才師)との間を適切に取り持つための計画的なネタの生産と供給のためであるからだ。マーケティングチームの組成か立て直しから始めることをお勧めする。

相手の大きな共感を得るための10層目を作るための挑戦をする。
特にまだその価値を世に知られていないスタートアップでは、継続してその力を意識的に鍛え続けることでしか、事業の非連続的な成長はあり得ない。
未来の可能性を広げる唯一の道は、その血の滲む努力によってつくられる。


やるか、やるか、やるか。

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