キレイゴト道徳

道徳の授業って、クソだよな。
非現実的な綺麗事が「正解」で、それを察して、今改めて気付きました!みたいなフリをしないといけない。シラケたことでも言おうものなら、話が長くなるくらいならまだマシで、とんでもない教師なら指導という名の罵詈雑言か哀れみの目が飛んでくる。綺麗事は綺麗事として受け入れたフリをすることでその場をやり過ごすという、社会の汎用的なルールを学ぶ場だと言ってしまえばそれまでだ。
ただ、映像でも文章でも、毎週新しい物語に触れられるってことだけは、幼少より情報ジャンキーだった僕にとっては嬉しかったし、キャラ付けされた「お勉強がよくできる子」とは別の土俵で過ごせる開放感もあったかもしれない。「聡い子」ではなくて「面倒な子」側だったはずだ。

脱読み物道徳

物語に対して、登場人物の心情を想像し、共感することで道徳性を育む
という名目で行われていた旧来の道徳の授業を、まるで国語科のようだという批判を込めて「読み物道徳」と呼ぶ。
そこから脱出して、自分がこの物語の状況に置かれたらどう思い、どう行動するのかを考えたり、実際の生活に引き付けて似たような状況と対応を想像したりと、「質の高い多様な指導方法」(文部科学省)を充実させることが求められている。
子供って賢いからそんな小手先では欺瞞を隠せないし、「矯正」なんてできやしないですよ。寧ろ国語の時間にした方がまだ情操を養えると思う。色んな人の色んな行動を、単純化された文字からすら読み取れない人に、複雑で言葉になっていない現実の人間の一体何が分かるというのだろう。顔色をうかがうことが道徳とでも言うのかね。

対話型

対話型みたいな、更に先進的な道徳の授業だって大して変わらない。
より仰々しく、「気付き」をやらないといけないというだけだ。そもそも対話というのは自分の内側を表出する営為であって、もともと子供の内側に「善」があることを前提にしてしまっている。外から「善」を植え付けるならそれは対話ではない。
「善」の基準はパラダイムであるので、子供の「自然」な価値観が「善」であるはずがない。たまたま今の善と自然が一致しているならいいかもしれないけど、子供というのは基本的に邪悪に近い無垢だろう。近いというのは簡単に傾きやすいのは邪悪の方だというか、理性とか合理とかそういうオトナの世界のものを「善」と定義しているからというか。

道徳の授業は何のために

外から善を植え付けるのが欺瞞であること、内側に善があるなんて楽天的すぎること。それは明らかな問題点だ。
善ってなんだ?という話はさておき、では道徳の授業は何のために行うのだろうか。道徳教育は学校教育活動全体を通して行うもので、その理念に疑義を唱えるのはこんな雑な論理では到底適わない。道徳の授業だけに絞ろう。
思うに、子供に「あなたの心は善ですよ」と言ってあげる時間が、道徳の授業なのではないだろうか。自分は善だと思い込むのは問題だが、自分は悪だと悩む子供を救う方が先決だ。
様々な葛藤があって、それをどう解決するのも「正解」ではない。ただそこに、自分や相手、集団や社会のことを思って、考えを巡らせる、その過程さえあれば、それは「善」という為し得ない究極的な理想へと近付く一歩と言えるだろう。人の善悪を正確にジャッジすることなんて、誰にもできやしない。だからこそ逆に、誰にでも不正確にジャッジできる。
そこで「いいや、俺は悪だ」と言い張れるなら、カント的な道徳が備わった、ある種の超人なのでそれはそれでいいと思う。大抵の人は「善」でありたいという欲に負けてくれる。それは社会の統制を保つために必要な敗北であり、学校の役割の一つだ。
学校の中で高く評価され得る資質や能力は、非常に限られている。道徳を説くことなんてどうせできないんだから、せめて道徳の欺瞞をお互いに利用しよう。何が善かなんて、勝手に決められたんだから、勝手に決めてやろうぜ。
対話によって、評価すべき子供の葛藤を引きずり出す。そしてそれを褒める様子を他の子供にも見せつける。それは自分の思考や感情を表現し、他者とそれを見せ合い、お互いに認め合う、「対話」の練習になるはずだ。
道徳の授業で教えたいことは、善の中身ではなく、善に近付くための方法論だ。

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