日本語教師日記その6.ガラパゴスへの道②
日本語教師生活を振り返る記事の2回目になります。
おつきあいください。
大学を卒業して就職した会社がブラックで、
半年で屈託して、後先をあまり考えずに辞めました。
その後、自治省関係の財団法人で働いていたのですが、
ある日また、退屈でたまらなくなりました。
長期休みに助っ人に入ってくるアルバイト学生さんと、
自分のしている仕事の内容に、あまり違いがなかったのです。
それで、新聞の求人欄を毎日見るようになったのでした。
ある日、
「日本語だけで日本語を教えてみませんか」
という小さな記事が目に入りました。
千駄ヶ谷日本語教育研究所の
日本語教師養成講座の募集記事でした。
日本語だけで教えられるというのが驚きでした。
もしかして、私にもできるのではないだろうか。
早速、高田馬場にあった本校に行きました。
深く考えないのは昔からです。
講座は、夏休みを除いては毎日、6時半からだったと思います。
当時で、忘れもしない、27万円の大金でした。
どうでもいいのですが、受付にいたのは、
外国の方と結婚されていた、メヒデさんという美人でした。
長い間、「女秀さん」という珍しい名前の方だと思い込んでいました。
メヒデさん、お元気でしょうか。
その年の養成講座には、12人しかいませんでした。
終わったら食事をすることも多くて、
みんなと仲良くなって楽しかったです。
発表や実技もたくさんあって、わくわくしました。
今は亡きY先生、後に私の同僚や、雇用主になった皆さんも、
その年の講師として出会っています。
今でも続くお付き合い、ご縁とはありがたいものです。
1年間の講義が終わりまして、採用試験があり、
幸いに合格できました。
人手不足だったのでしょう。
もちろん最初は時間講師ですが、
ゆくゆくは専任講師になりたいと夢見ていました。
当時の私は、時間講師が、授業があるとスケジュールに組み込まれ、
召喚されるものだとは思っていませんでした。
専任講師と就業形態は違っても、朝出勤して
帰る時間まで、コンスタントに授業ができると思っていました。
しかし、生徒数の上下の激しい日本語学校では、
一定数のクラスを維持し、正社員の講師を抱えることは難しい。
それは今でも同じなのでしょうか。
それからまた、企業相手の出張授業では、
就業前の午前8時、ランチタイム、午後6時以降などに
プライベートレッスンの依頼が集中します。
授業依頼はたくさん来るのに、講師が足りません。
そして、講師にとっては、他の時間もたくさんあるのに、
依頼は同じような時間しかありません。
これは永遠に続くジレンマかもしれませんね。
私に対しても、朝・昼・夜の授業の依頼ばかりで、
これはうかうかと、フルタイムの仕事はやめられない
ということが すぐわかりました。
当時私は、虎ノ門病院の真前のビルで働いていました。
笹川亮一氏がおっかさんをおんぶして、
金毘羅さんの階段を上がっている銅像は
今でもあるんでしょうか。
時間講師として採用されてからの毎日は、
7時半か8時からのプライベートレッスンから始まりました。
レッスンが終わると、すぐに生徒の会社のビルを走り出て、
いくらでも走っていた流しのタクシーに飛び乗って出勤します。
たまに昼休みにもレッスンが入り、これには冷や汗をかきました。
行けるのはせいぜい、日比谷、霞が関、赤坂ぐらいです。
夜は千駄ヶ谷日本語教育研究所の教室で、
小規模クラスを教えることが多かったです。
グループも個人も全て新しい体験で、とても楽しかったです。
駆け出しですので、準備に時間がかかって大変でした。
やがてはOLを辞めて日本語の仕事だけをしたかったので、
収入面で不安を感じて、ワープロ入力のアルバイトもしていました。
深夜にお風呂に入ると、頭がぐるぐるし始めます。
え〜と、隅と角の違いって、聞かれたなぁ・・
え〜と、行けば と 行ったら、どう違いますか、って
絶対明日訊かれるなぁ・・
なんて思いながら、湯船で寝落ちしてしまったりとか。
思えば無茶振りな毎日でしたが、若くて体力があって、
本当に楽しい時代でした。
そんな私の思い出の初出張授業はこちら。
続きますね。
サポートしていただけたら、踊りながら喜びます。どうぞよろしくお願いいたします。