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日本語教師日記その9. ガラパゴスへの道③日本語教育能力検定試験(上)


「ガラパゴスへの道」①〜②では、
私が民間の日本語学校の日本語教師養成講座を修了し、
その同じ学校に採用されたところまで書きました。

すぐにOLから日本語教師への転身と勢いこんでいたのですが、
その後、学校から提案のある授業は、

あなたの会社は虎ノ門ですね?
ではこんな授業に行けませんか?

と、仕事の合間にいかがですか、ということのようでした。

それで、なかなかに辛い早朝のプライベート授業と、
ピンチヒッターでなら無理して行かせていただきますという、
往復タクシーでのランチタイムレッスンが主。
それと、習いに来る人の多い、学校での夜のクラスのみでした。

これでは到底自立した日本語教師にはなれませんので、
それまでの財団法人勤めも続けつつ、
出入りの印刷屋さんがよこしてくれるワープロ入力のアルバイトもしつつ、
潮目の変わるのを待っていたのでした。

朝のレッスンには、同じ学校の日本語教師がお二人来ており、
グループで一人の生徒を教えることも多くて仲良くなり、
やがて、二人が所属している日本語学校に呼んでもらいました。

そこでじわじわと仕事が増えたのですが、
2年後ぐらいには、週に3日、各回90分という個人授業が入り、
ダブルワークをしなくてもなんとかなりそうだと瀬踏みをし、
それまで勤めていた職場を、こわごわ退職しました。
思えばそのころは、まだまだ いただける時給も良かったのです。

さて、中曽根元首相が、

私とアメリカ大統領は、「ロン!」「ヤス!」と呼び合う仲だ、
と嬉しそうにしていたのはその頃です。

日本への留学生受け入れが少ないと どこからか文句を言われ、
留学生10万人計画ということを発表したのが1983年だそうです。
それは私が日本語教師なるより数年前のことでした。
当時、日本語学校は簡単に誰でも開校できる、と言われていました。

そんな活気の出てきた時代に日本語教師になり、
なってすぐの1986年に、「日本語教育能力検定試験」が始まりました。

この検定試験は、すご〜くすごく難しい! と教師間で言われており、
私などは、もう日本語教師には なってしまっているし、
「国家試験・資格試験ではないので、
                      持っていなくてもとりあえず失業はしない」
ということも手伝ってか、重い腰を上げませんでした。


(もう数年して、過去問などがどんどんできたらやろう)

と考えていたのです。

同僚で、ものすごく頭のいい人が
即合格しましたが、私はとても自信がありません。
受けるべきかどうかと、散々悩みました。
現役なのに落ちたら恥ずかしい、と思っていたわけです。

その後、もたもたしているうちに、結婚、出産、育児がやってきて、
日本語教育能力検定試験、略して日教は、
ますます、私から遠ざかっていきました。
(私が遠ざかって行ったのね?)

「 日教は、何点以上が合格というのではなく、
上位得点者の上から18%だけを合格とするらしい」
という、まことしやかな噂にも耳をし、ますます怖気付く。
受験準備に踏み切れないまま、
日本語教しとしては、なんとなく、
ガラパゴス化が進んでいくような心地がしていました。

さて、日本語教になってから、出産3日前までは、
私は極めてスタンダードな日本語教師でした。

朝一の出張授業のあと、有り余る空き時間をなんとか潰し、
ランチタイムレッスン、午後は家庭訪問で駐在員の奥様方。
それから夜にはクラスレッスンに入って、帰宅は10時でくったくた。
出向く先も、千葉・東京・埼玉・神奈川に亘り、
片道2時間という、効率の悪いレッスンも いくつもありました。
社長さんの運転手さんが、駅まで迎えに来てくれる僻地、
今をときめくIT企業で、首から下げる写真入りのIDカードを渡されたり、
先生は1階のスタバでバナナをもらったか、
あれは先生だって食べていいんですよと言われたり。
大使館は4カ国ぐらい行きまして、いい体験をしていました。

2度の出産の後も、一時期夫が主夫をしていたり、
生徒の方が柔軟に対応してくれたおかげで、なんとか続けられました。

教える場は個人宅か、カフェなどです。
週1で1レッスン1時間という生徒さんたちがほとんどでした。

完全母乳育児ができたため、カネソン社の搾乳ポンプと
アイスノンを荷物に忍ばせ、
ホテルの宴会場フロアのトイレで搾乳したりしていました。
今はとてもできませぬ。
途中で、冷凍母乳がなくなったと、家にいる夫からポケベルが入り、
(TTM、東京テレメッセージですよ)
背後には長女の泣き喚く声が響いて大慌て。
東京タワーの下で待ち合わせて、
車の中で授乳をしたりしました。

なんであんな無茶ができたのでしょう、本当に体に悪そう。
あの時代に戻れるなら、絶対やりません。

要するに、あの頃は自信がなかったのでしょうね。
日教も受けたことがないし、ここでやめてしまって間があいたら、
誰にも相手にされなくなるであろう。
教え方も古臭くなってしまうであろう。
新しい教科書にもついていけなくなるかも。

そんな気持ちがあって、バタバタ駆け回っていたのだと思います。

そんな忙しい怠け者の私に、決断のときがやってきました。

さすがに、

日本語教育能力検定試験?
受けたことはありません、はっはっは!

では押し切れない感じになってきたのでした。


続きますね。




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