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良い「推し」と「推す」の意味を改めるための日

前提

「推す」という言葉が乱用され、バスキンロビンズが定期的に推しアイスだったり、JR駅ごとにキャラが用意され駅自体も推しと認識される昨今。どこか意味が肥大化している「推す」の定義を見直し、何を持って「推し」になるのかを議論していきたい。

「推す」の意味

VTuberファン達がこぞって「推し」のことを話している最中、やたらと「古のオタク」と揶揄されている方々も「萌え」との言葉の比較を行った。
また「ガチ恋拒否」と宣言している方々に対しても疑似的な恋愛経験を味わえるからこそ「愛してる」ではなく「推している」と表現している。
「萌え」がそうだったように、端的に新しい言葉を使うことで疑似的に価値を高めるために「推し」を使っていると表現する人も居る。
ならばこそ「推す」を意味を多角的に見つつ異なる要素を浮き彫りにしていけば、より鮮明に言葉の本質を捉えられるだろう。

献身という意訳

英語圏にて「推す」という言葉は存在せず、同じく「推し」のことを「OC」と表現している。あとは包括的に「follow・with you」と言った抽象的な状態を示す言葉を利用しているのが現状だ。
それを踏まえて私は「推す」ことを「Devotion(献身)」と訳すことにしている。理由としては金銭や機会への参加以外にも、同じ時間を過ごすことを厭わない点や選択し続けることへの意味付けも含まれるからだ。また別の意訳として「愛」に拘ってしまった場合に、国ごとの愛の定義が異なるだけでなく、日本語に内在するタブー(「アイドルは恋愛してはいけない」等)や推し本人がタブーとしている行為があるため、それを愛と認識されない可能性が高い。一方で「献身」ならば、その相互的な理解が無くとも、一方のルールを受け入れさせることをより強調できる。
自分たちのルールを通用しない、推しだけのルールに沿ってのみ、自分たちは推すことが許されるため、この一方的な制約を献身と表現している。
この表現は「推す」ことの全てではないが、スタートラインではないかと思ってはいる。

関係性と金銭の話

推しが「歌ってみた」や3D配信したり参加型したりグッズ展開したり等の幾つかのコンテンツが提供されるが、それらを取得しつつ参加するだけならばその人の財力と余裕しか測れない。
これ以外にも心情や想いが込められていると仮定しなければ、ファン自身が自分たちを金銭の源という見方しかしなくなってしまう。この見方は大変危険なのは、推しが向けるあらゆる感情が実存する人々ではなく金銭に向けているとファン自身が思い込む可能性があるからだ。
特に金銭に至っては、ファンが知っている情報だけでも、スパチャの還元率、推しが企業勢ならばマージン率、グッズの還元率だけでなく、事業やイベントの利益率、案件の金額や達成率、推しの確定申告時の収入と納税の割合等枚挙に暇がない。またそれらの細かいテクニックも含めてしまったら、それだけで長大なコンテンツになり得る。
よって推しが「ファンは金銭に還元しきれない」ことを宣言することで、ファンは自身の存在を数値以上に昇華させ、二度と金銭に成り下がることが無くなり、「ファンは金銭」という解釈を否定することができる。
なのでファンの購入履歴やファン歴の要素を抜きにしても、推しが「ファンはそれ以上の意味が存在する」と宣言している以上、ファン自身も自分達が金銭の意図を優に超える何かを持っていると自負しなければならない。この関係性を推しとファン以外の言葉で表現できないのが現状のため「推す」という単語が使用されている。

システムの狭間

献身と意訳し、関係性と金銭の話をしたことによって輪郭を付与させたが、全てがルール通りまたは善性を基に動作しているわけではないし、何より推しとファンの間で締結される推しのルールはかなり自由を極める。

まずこのトピックで一番話題に挙がりそうな「恋愛関係」に関してだが、そもそも一夫多妻・多夫一妻制という存在を知っていても、自分達が知っている恋愛感情がその制度に相応しいものとも限らない中で「ガチ恋NG」または「恋愛以外の目標がある」と伝えない限り恋愛の可能性があることを、推しのシステムが提示している。挙句の果てにこの構図を「夢を見させる」ことの一部と認識している人も居る。
システム的には問題は無い部分もあるが、名言化されていないルールとして恋愛の形が不定形であり且つそれを成就させる約束も無い。またそれが何年継続されてどこで何が起きるか、というプランニングがあるわけでもない。同時に「既に○○やったから××をやらない」というルール設定もどこで幾つ設定されているか計り知れないので、あの有名な「結婚指輪」というファングッズを売ったからと言ってプライベートの恋人を作らないわけではない。
契約不履行とまではいかないし先ほどの「一夫多妻・多夫一妻」の意味を深堀して境界線を設けることも無くルールの変更を告知するとも限らない。

この上記のシステムから発展させて「ガチ恋はNGだが、妹・弟扱いしても良い」という謎解釈を当たり前のように展開することもできる。その解釈の延長線上で「理想の年下」として振る舞いつつも恋愛感情に近しいものを持ち出させることは最早常套テクニックだし、この理論を同じく「理想の年上」で行える。
何ならば「あなた達が居なかったら今頃〇んでた」が冗談ではなく本心で言ったとしても受け取り手がどのような感情を抱くかを完璧に一任させているケースもあり、推しとファンの関係性とルールを最大限に曖昧化させている。なのでこれを踏まえてもファン側が受け取った、または推しに想起された感情を推しのルール下であることを宣言するために、これを全部「推す」行為だと表現するのだ。
逆説的に「同担拒否」や「ユニコーン」や「後方腕組彼氏面」という言葉が若干忌み言葉として扱われたり「本当のファン」とかいう言葉で線引きをさせているのは、こういったルールの解釈下に属さない感情を隠し切れない人達を緩やかに否定するためにあるし、自分達もそういう感情を抱いてもファンの線引きの内側ならば許容されることを再認識するためにある。

最終的な「推す」の意味

推しが定義したルールに下り献身的に尽くし、且つそのルール自体の極解釈があっても従属を続け、部分的にタブーとなる感情があっても誤魔化し続けることを「推す」と表現する。
とてつもなく悪い表現の塊に見える上記定義だが、このルールならではしか提供できない要素があることと、長期的なゴールがあり、それを叶えるための架橋の役割として推しが存在することがある。その真逆の可能性もあり、特殊なルールも無く緩やかな日々を過ごし提供される和やかさを互いに享受することを目的とする場合もある。
なので「推す」というのは献身やシステム的に許された感情だけでなく、提供されたシステムの恒久性を願い補助することも含まれていると、私は結論付ける。

よい「推し」とは

上記にて「推す」ことの意味を定義したが、推し無しでは「推す」ことの大部分が損なわれたままになる。だからこそ「推し」に留まらず「良い推し」を定義することで持続性延いては正当性を見つけだすことにより、ただ数値的に優位である必要が無いことを証明し、この関係性を継続させ続けるだけの意義を見出すことになる。

衝突とナッジの管理

「私はアイドルだから恋愛はできませんが、一人前のアイドルになるまで推してください」左記内容のルール宣言は理に適っており大部分はその通りに動くだろうが、アイドルという言葉内に大量のルールを内包させ、アイドルだからと言って恋愛を彷彿させる曲を選ぶ可能性もある。
少々古いが「口づけキボンヌ」や「オレンジ」や「ファンサ」等の著名ラブソングを歌った暁には曲内で誇張表現された恋愛感情が付いて回るに決まっている。特に一部のアイドル曲はファンとアイドル間でのみ許される特異な感情に脚色し神聖化させるケースがあるので「恋愛をさせない」ことをルールに縛らせつつもそう想わせないように工夫している。だがそれは飽くまでも曲と歌手自身の都合であり、受け取り手もそう思わなければならないという都合の悪いことを平然と強要させている。
悪い言い方をすると、わざと恋愛感情に似た何かを宙ぶらりんにする、またはさせてしまっていることを放置しているに近しい。そしてこれらアイドル曲を歌いパフォーマンスすることの副産物として、推し自身の成功体験に付随する形でファンが切に感じ取った恋愛感情も、ファン個々の思い出にこびり付くことになる。

よってアイドルを目指すことを命題にしているならば、パフォーマンス毎の思い出をファン達自身に整頓させるための指針、俗に言うナッジが必要になってくる。そしてナッジを提示させていく上に当たって、より強制力が必要になった場合にはルール化させ厳格に処分させる。
だがこのように様々な種類のアクション(ライブ・コラボ・ラジオ等)に別途指針やナッジを付随させていく上に当たって、そもそも「1人前のアイドル」のイメージ図もとい輪郭が不明瞭になり始める。施工させていく数多のルールを経て、皆で共有されるべき「アイドル像」が遠のき始めて、推し自身が自分をアイドルと認識させるために言い訳を連ねる可能性がある。
なので推し自身が最初に提示したルール次第では、自身の活動が矛盾を起こし自身で幾度か慟哭を経験する羽目になるし、何よりも慟哭が発生するようなルール下でファンに支援させていたことに絶望しうる未来もある。
推しは幾度とルールを見つめなおし、施行されたナッジの追加と撤回を繰り返すことでファンは柔軟且つ深く理解しながらルールに従うことができる。

事実に絶望しきらないこと

自身を推しと称し様々な活動をやっていく上で、ただ見やすい数字だけで押しつぶされる人々は居る。極論を言うならば「キズナアイ」以上のVTuberは存在し得ないし「Mr.Beast」以上の動画再生数を獲得するのは不可能だ。ただこの極論を何度か薄めて行く上に当たって自身の尺度に相応しい数字の壁が存在してくる。
またこういった数値的な絶望以外にも、上記の例題で取り出した「アイドルとアイドル曲」の話の進め方を見て頂ければ判るが、様々なアイドル曲が応援させたり恋愛感情を彷彿させる内容であり、恋愛感情を抱かせない無理を強要させているので、生身の人間として実施していく上に当たって慟哭が避けられないという、アイドルにまつわるシステム的な壁も存在する。
このシステム的な壁はアイドル以外にも存在する。例えば学術系インフルエンサーも、数あるリサーチや時事ネタから過激な動画タイトルやXのポストをするが、それらを受け取りインフルエンサーを推している人々は、自己啓蒙をするのではなく「何となく賢さの摂取」という頭の体操がてら応援する人も居り、そのインフルエンサーが目指す目的を理解していないことに絶望しうる。挙句の果てに100%の善意で「○○さんの声を聴いてると落ち着きます」とかいう全然違う方向性のファンレターを頂く可能性だってある。
ならばこそ、それら壁を超えるような甲斐性、誰かが悪意を持って叩きつけてきた絶望から希望を見出す力があることを証明すれば、自分が敷いてきたルールとそれに賛同したファン達が純粋なる意味で高潔であることも同時に証明できるだろう。

法的以外の理由で敵意を出さないこと

ファン達は推す上で数多のルールを溜飲し献身的に支援している。だが先ほどのアイドルの例にて説明した通り、推しの様々なアクションに付随させた表面化させていない感情を抱え込んでいる。それは嫌悪や軽蔑のような否定的な感情も含まれうる。
そして推しとファンの関係性は常にルールとナッジを用いた調整作業であることを上記にて記載したが、それらは主に関係性の内側、推しのルールの内側に存在するファンへの調和行為だった。
ここに法的に許されていない敵意を持ち出した場合に、ファン達がその敵意を外側に向けるための既成事実になり得るだけでなく、推し自身にもそういう感情を抱く瞬間がある証左になるため、ファンの間にも内側のさらなる内側という境界線が出来上がる。それはファンが推しの敵意を逆撫でする可能性に対するリスクだけでなく、敵意を持ち出した時に使用されたメソッドもとい攻撃方法だけでなく、否定的な感情の発散場所としてのファンの居心地の悪さによる境界線も含まれる。
再度記載するが、極度の嫌がらせ行為またはルール無視による警告やプラットフォーム機能を用いた正式な処罰は上記の敵意に含まれないものとする。

最終的な良い推しとは

以上の内容から、私が定義する良い推しとはルールの執行と調整を行う、自分とファンというコミュニティの執政官的な立場であると定義した。また定期的に壁にぶち当たりながらも希望を見出す役目があり、正当性の無い敵意を持ち出さないことでファンを守る。
だが絶望や壁は強大であり、ルールやナッジを幾ら施行しても思った通りに動かないのも常であり、敵意を抑え込むのさえ難しい場面も多い世の中で、歴代のベテランでも肩を竦めるものだ。
可能な限り推しの見た目や目標や性格等を踏まえない定義を用いたつもりだが、自分が取り上げた3点でさえも履行するのが難しい中で、良い推しとの出会い自体が一種の運命なのではないかと思う。

最後に

本稿では「推す」ことと「良い推し」の定義を試みた。定義として守りやすい点も取り上げたが、同時に定義の解釈を広げ数多のグレーゾーンを潜り抜けられることも記載できた。
別に全ての魚が清い水を求めるとは言わないが、ファンが「推す」ことの意味を忘れてしまったり、推しが自身の存在を疑ってしまった時にも、本稿で記載した内容が誰かのライ麦畑になれることを願い筆を執った。
最後まで読んで頂きありがとうございました。

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