
2024/07/10 佐藤愛子著『九十八歳。戦いやまず日は暮れず』 想いを綴りたい
つい先日、映画化された佐藤愛子さんの『九十歳。何がめでたい』を読んだばかりだが、なんと、続編があることを知った。九十歳でもすごいのに、『九十八歳。戦いやまず日は暮れず』というタイトルだ。
老いてなお、人は何を思って日々を過ごすのだろうか。物忘れがひどくなったとしても、何も思わず何も考えず、ただ眠ったように時を過ごしているわけではないだろう。ふと過去がよみがえる瞬間があるのではないだろうか。最後まで人の心に残る記憶とは、いったい何だろう。それを知りたいとつねづね思っている。
ふつうの人は、何か思ったとしても書くことに慣れていないから文字として残すことができない。佐藤愛子さんなら出来る!百歳近くなった人の心のうちを、その本音を知りたい。
名を成した人なら、本を出すにあたって人生を振りかえり、少しはカッコつけて、若い人に向けて素敵な言葉を書き残そうとするのではないだろうか。しかし、佐藤愛子さんはそうではない。
何もしていない、なのにヘトヘトだ。どんなふうにヘトヘトなのか、そのありようを書くべきところだがアタマは動かない、と言っている。
百歳近くになっても元気はつらつという人も確かにいるだろうが、それは超人であって参考にはならない。
ヘトヘトが正直な感想のように、私には思える。
某週刊誌から、老いてからの長い歳月を前向きに過ごすにはどうすればいいか、そのコツをという質問がきたそうだ。
五体ボロ雑巾になろうとしているのに声だけがバカでかい。よくしゃべるので「口だけ達者」という厄介なエセ元気者なのだと、自分のことをそう言っている。
小春日和の縁側で猫の蚤を取りながら、コックリコックリ居眠りし、ふと醒めてはまた猫をつかまえて蚤を取り、またコックリコックリ…というような日々を送りつつ、死ぬ時が来るのを待つともなしに待っている、という境地が理想だと書いている。
少し前、コロナ禍の前ごろまで、じつは私も似たようなことを考えていた。猫の蚤は取りたくないが、八十歳になったら日向ぼっこする猫のように暮らしたいと思っていた。だが、あっという間に七十歳となり、八十歳がそう遠くなくなったら、猫の日向ぼっこは九十歳になってからにしようと思うようになった(笑)。
話は戻るが、この本には、佐藤愛子さんが女学校2年から満21歳までに経験した戦争時代のことも書かれている。加齢と共にアイスクリームのように溶けて消えていった情景がひょっこり現れて来たりするそうだ。
いっぽうで、コロナ禍で国民に届けられたアベノマスクについて、あの小さなマスクを着けた安倍首相ご本人の哀愁漂う孤独な顎を見ると、悪口など言えなくなる。老境の感慨とはそういうものだと書いている。
自慢話もないし、読者に向けた教訓も語られていない。ありのままの98歳の想いだ。
私が何を書き残しても、誰にも読まれないし、そもそも読んでほしいとも思わないが、人生最後まで自分の思いを文字にできたら、さぞ楽しいだろう。そうありたいと思った。