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親父の臨終
それは崇高な表情だった。生前、ただの一度も見せたことのない表情だった。明らかに成仏の相だ。
なんだ親父。
お前、そんな顔もできたのか。
親父が死んだことよりも、そのおごそかな相の方に驚いた。
病院の看護師さんによると、つい15分前の見回りでは何ともなかったのに、次の見回りで心臓が止まっていることに気づいたと言う。驚いたのは病院側である。それまで全く危篤でもなんでもなく、数値も悪いながらも安定していたのだから。
(生きていれば)これからが一番苦しむ時期に入るところだったから、いいタイミングで旅立たれたと思いますよ。
看護師さんが、慰めの言葉をかけてくれた。
散々だった親父の素行
私の父親のすぐ下の妹にあたる叔母は、私の顔を見る度に「なんでウチの兄貴はいつもああなん?」と問いかけてきた。四人兄弟の長男だった親父は、幼い頃から自分勝手で、思いやりというものが完全に欠落していた。その幼い頃の親父の一番の犠牲者が、叔母だったというわけだ。そして、何歳になっても変わらぬ親父のあり方を目にする度に、怒りが込み上げてくるらしかった。当人に怒りをぶつけてものれんに手押しなので、呆れ返って私に言わずにはいられなかったようだ。
親父は若い頃、製パン工場に勤めていて、製パン機に右腕が巻き込まれる事故にあっている。腕を切る切らないの騒ぎになったそうだ。そもそも性格に難のある親父である。この上、右腕まで失っては人生まで失うと思ったのだろう。私にとっては祖母にあたる母親が懸命に病院を探し、なんとか右腕は切らずにすんだが、身体障がい者手帳を持つ身となった。
私のお袋と結婚した後、本家のある小さな町の駅前に八百屋を出したらしい。他に店などない地域だったのだが、店の売り上げは散々で、売れるよりもネズミに食われる方が多いと笑われていたそうな。
またこの親父は、若い頃からたいそうなギャンブル好きで、店の番を、まだ赤ん坊だった私に任せ(いや全く任せてないし)、店の金を持ち出しては競馬にうつつを抜かす、といったことを繰り返してもいたようだ。
それで商売が成り立つわけがない。そして、失敗したからといって、自分でけつを拭くような親父でもなかった。その尻拭いのために、祖母は頭を下げて周り、売れるものは何でも売って、借金返済に歩いたそうだ。
極貧だった幼少期
そんな我が家は、当然、貧乏であった。私の幼い頃の記憶を紐解くと、凄惨な親父とお袋の争いが浮かんでくる。
銀行の預金通帳と印鑑を片手に、ギャンブルに行こうとする親父。それをヒステリックに非難するお袋。自分で稼いだ金を俺がどう使おうが、俺の勝手だと、自分勝手な理屈で開き直る親父。なら私を殺してから行け!と、包丁を片手に親父に詰め寄るお袋。そのお袋に容赦のない鉄槌を浴びせ、家を飛び出していく親父。泣き崩れるお袋。
私と妹は、そんな光景を、部屋の隅で震えながら見ていた。
そんな家だったので、いつも食うに困っていた。
ある時は、炊飯器の内釜のへりにこびりついてカピカピになったご飯粒をしゃもじでこそぎ落とし、茶碗に移し、そこに塩とお湯を注いでズルズルとすすった。幼いなりの悲しい知恵だった。
親父の鉄拳制裁の相手は、お袋だけではなかった。幼かった私たちにも、容赦なく降りかかってきた。特に妹は、そんな親父に向かってくってかかるような目つきをするので、余計に親父の癪にさわったらしい。血だるまになるまで、容赦のない制裁が加えられた。幼かった私は、その光景を確かに見ていたはずなのに、なぜか思い出すことができない。記憶からきれいに消去してしまっている。そしてその鉄拳制裁は、妹が嫁ぐ一週間前まで続いていた。(妹が教えてくれた)
親父は酒癖も悪かった。お酒に意地汚かった。一升瓶を抱えたまま、表の通りで寝ていたり、大怪我と言えば、全て酒絡み。とにかく、お酒にはだらしなかった。
実はアルコール依存症だった
そんなある時、まだ幼かった私は、親父にこう言ったそうだ。お父ちゃん、そろそろ仕事してくれよと。その一言で、親父は「これではいかん」と一念発起したそうだ。程なく、地元に進出してきた大手製鉄所に職を求め、採用された。
思うに、右手のきかない身体障がい者ということで、それまでの就職はなかぬか思うにまかせないところがあったのだと思う。それが故に酒に逃げたとも言えるが、いやいや、あれは心底酒が好きだっただけだ。
ちなみに、親父の死後、親父のことをこと細かに私の主治医に話す機会があった。
それは間違いなくアルコール依存症ですね。
そう言われて、何もかにもが腑に落ちた。それに加えて、親父は何らかの発達障害ももっていたんじゃなかろうかと、私は思っている。
何はともあれ、そんなダメ親父ではあったが、仕事だけは真面目だった。家族の前で見せる素行は問題ありありで、人前で恥ずかしい思いをしたことも数限りなくあるが、仕事をサボったり、手を抜いたりということは全くなかった。いい仕事をしていると言うことに、誇りさえ持っていたように思う。
時はちょうど高度経済成長期。世の中の景気が良くなるにつれて、我が家の経済も潤っていった。おかげで、狭いながらも建売住宅を購入することもできたし、私は大学を、妹も専門学校まで出してもらえることができた。それは、素直に親父の良き仕事ぶりのおかげだったと言える。
そんな親父の信心は、散々だった。御本尊の前で手を合わせるのは、年に一回、地元会館で行われる新年勤行会の時だけ。創価学会への入会も家族の中で一番遅かった。
家族が信心を頑張る分には、応援こそしなかったが、さりとて何の文句も言わなかった。一度だけ、学会を悪く言う奴は許さないと語ったことがあった。親父なりに、創価学会への確信はあったのだろう。
お袋は早くに亡くなった。享年49歳。親父は早くに独り身になった。その時、私は東京で家族を持ち、妹も早々に嫁に出ていた。家には親父一人きりである。
帰郷
ある時期から、よほど寂しかったのであろう、酒に酔うと、親父は東京の私の家に電話をしてくるようになった。そしてしきりに、帰って来いと泣き言を言うようになっていった。お袋の兄にあたる叔父からも、上京の度に私に会い、田舎へ帰れと説得をされた。
ちょうど私も東京暮らしに疲れ、田舎が恋しくなっていた頃だった。東京生まれ東京育ちの妻には申し訳なかったが、承諾をしてもらい、家族三人、二トントラックに家財道具を詰め込んで、田舎にUターン。1995年の阪神淡路大震災の一週間後のことだった。
そうして家族四人になってしばらくした時のことである。私は、親父が「帰って来てくれ」と言うから田舎に帰ってきたんだぞと言うと、親父は「わしゃそんな事言うとらん!」と開き直るではないか。無理を言った妻の手前もあり、私のハラワタは煮え繰り返ったが、親父はそんなことには我関せずな態度だった。
そして、妻は、帰郷して三年で、娘を連れて東京に帰った。岩の上にも三年と言うから三年は我慢したが、もう限界だ。反対するなら、離婚してでも帰ると、それはもう凄まじい剣幕だった。私は、素直に妻の言うことに従う他なかった。
その三年後、その妻とは離婚した。親父が生きている限り、一緒に暮らせる可能性はないし、ならばいっそ、婚姻関係に終止符を打った方がいいと私は考えた。この三年間の別居生活が、痛く私を消耗させていたのも、大きなキッカケとなっていた。しかし、これはまた別のお話。
忍び寄る病
親父の酒への執着は、歳を重ねるごとに強くなっていった。タバコも、一度、寝タバコでボヤ騒ぎを起こしたにもかかわらず、一向に控えることがない。「酒はワシの命じゃ」「火葬場の煙になるまでワシャ吸い続ける」と言ってはばからなかった。
ある頃から、親父の声がかすれはじめた。良くなる兆候が全くみえないので、何度もしつこく病院に行けと忠告した。しかし、全く聞く耳をもたない。そして数年後には、声がほとんどかすれて聞こえないぐらいまで酷くなった。再三「病院へ行け」と言うが、それでも行かない。
しかしだ、ある日、親父が病院から出された紹介状を私に渡し、隣県にある大病院に行けと言われたから連れて行けと言う。声がどれだけかすれても、決して病院に行かなかった親父が、たぶん息苦しさを覚えたからだろう、黙って自ら病院を受診していた。そして、ここら地域の拠点病院になっている、大学病院の受診を予約させられて帰ってきていた。
何の病気か、皆目見当がつかない状態のまま、大学病院の受診に付き添った。親父を診察した医師は、内視鏡で喉を見るなり顔色を変え、すぐ隣の同僚医師も呼んで、何か意見を求めている。そこで私たちが言われたのは、三日後に入院してくださいの一言だった。
後で知った事だが、この病院、入院するだけでニ・三ヶ月待たせることが当たり前だという。それが、何の検査をすることもなく、病名を告げられることもなく、すぐさま入院である。
入院後、親父はすぐに気管切開の処置が施された。その時になって初めて知らされたのは、喉頭部に大きな腫瘍があり、気管をほぼ塞いでいたとの事。気管切開は、窒息を防ぐための処置だった。
その一週間後に、腫瘍除去、頸部リンパ節郭清(かくせい)、食道と気管を繋ぐ穴を塞ぎ、頸部に新たに永久気管孔を設ける手術を行なった。病名は喉頭がん。術後に腫瘍を見せられたが、それはピンポン球ほどの大きさがあり、とにかく臭かった。こんなものが喉頭部にあれば、声帯が圧迫されて声が出なくなるのも当たり前だ。
術後が大変だった。
ベッドの上に座らされた親父は、その姿勢のままで、ベッドに固定された。首を動かせないのは当然として、上半身は全く動かせないようにガチガチに固定された。その状態で、一週間以上、経過を見るという。
あまりに凄惨な光景に、普段は親父憎しと思っていた私も可哀想になり、時間がある限り病院に通った。自宅から高速道路も使って、片道二時間かかる距離である。通うのに疲れはて、仕事が暇になる時は、病院の近くにホテルをとってまで通った。
十日ほどで拘束が解かれた。喋れなくなった親父のために、指差し用の文字盤を作った。その後、一ヶ月近く経過観察が続き、療養のために、別の病院へ転院となった。
緊急のため、一切検査せずに手術している。なので、懸念は、他部位への転移の有無であった。術後三ヶ月経って、術部が落ち着いたころ、PET-CTを受けた。結果、下あご部のリンパ節に転移が見られた。運悪く、そのリンパ節は頸動脈に絡まっていた。手術は不可能。地元の病院で、放射線治療を受けることになった。
親父は、その後、四年延命した。
その間、吸えなくなったタバコの煙を永久気管孔から吸ってみたり、酒が飲めないとなると、味醂にまで手を出して飲んでいた。喉頭がんの原因はタバコと酒。当然、医師からも止められているが、そんなもの全く意に介さず、あの大手術を経ても好きなように振る舞う親父だった。
ある年の暮れ、親父は自宅で急に動けなくなり、緊急搬送。診断は多臓器不全直前。長年、リュウマチ治療でステロイドの投与も受けていたため、体の抵抗力は下がっていた。誰もがもうダメだと判断し、親戚と葬式の相談までした。
だが、憎まれっ子世にはびこるである。一週間程度で状態が安定し、療養のために他病院に転院。その後、転院を繰り返しながら、九ヶ月近く延命し、翌年の八月十五日未明に息を引き取った。
親父は不思議と病院生活が好きなタチだったので、入院生活に一切不満はなかったはずである。それが、亡くなる三日前、一度家に帰ってみたいと言った(新築した家を一番気に入っていたのが親父だった)。歩ける状態でもなかったので、それは無理だよと告げたが、あれは虫の知らせでもあったからだろうか。
葬儀は、私が喪主兼導師を務め、家族葬を行なった。参加してくださったある叔母は、立派な御供養だったよと声をかけてくれた。
亡くなる直前まで、どこまでも自分勝手な親父だった。かつては恨みもした親父だった。あのお袋と一緒になってなかったら、私たち家族がいなかったら、ただの素行不良なろくでなしとして死んでいたであろう。しかし、その臨終の姿を目の当たりにして、妙法をたもつとはこういう事かと、改めて教えられた気がする。
親父は、自ら積極的に信心に励んだわけではなかった。世間的に見ると、家族に迷惑をかけ、傷つけることの方が多かった。しかし、経済的には家族を厳然と守った。そのおかげで、私は創価学会の信仰を貫けたし、思う存分、親孝行もできた。そう考えれば、親父は親父なりに、自分の使命をまっとうできたのではなかろうか。それが、冒頭のおごそかな死相となって現れたのではなかろうか。
親父の死に際して、とても大切なことを教わったと、初めて親父にお礼を言えた自分がいた。
最後に、自宅前にクリニックを開院した、元ERドクターの一言を。
ジャイアンさん、あの状態から四年も延命できたのは奇跡ですよ。
この先生から「奇跡」の言葉を聞くのは、二度目であった。