お義母さんの臨終
私の妻(二人目)の母親は、不幸を絵に描いたような人生を歩んできました。
30代での統合失調症の発症。夫に捨てられ、離婚後も金をたかられる日常。二度の乳がんで、両乳房の切除。糖尿病。そして認知症。
妻に言わせると、彼女が幼い頃の母親には、いつも壁に向かってブツブツ呟いているイメージしかないそうです。
私達の結婚当初、お義母さんは妻名義で借りていた市営住宅に住んでいました。しかし、糖尿病の上に認知症ですから、誰かが生活上の世話をしなければなりません。なので妻が、私と私の実父と暮らす家と義母が暮らす市営住宅を行き来する毎日。できれば一緒に暮らしたかったのですが、私の家にはそれだけの広さがありません。やむなく妻は、二拠点生活をせねばなりませんでした。
そこへ突然、降って湧いたかのような自宅新築の話。
お義母さんが生まれ育った古い家が空き家のまま放置されていたのですが、その家を取り壊して、新たに自宅を建ててしまおうという段取りで、あれよあれよという間に話が進んでいきました。遠方に住むお義母さんの弟さん(つまり叔父さん)も大賛成で、およそ100坪の土地をタダで贈与してくださった上に(贈与税は払いましたよ)、建っていた古い家屋の取り壊し費用まで出してくださいました。私が45歳の時です。
それはまるで「家を建てろ」と、見えない手で背中を押されているかの様な不思議な出来事だったのですが、それはまた別のお話。
とにかく、家が建っちまいました。
同居家族は、私と妻とお義母さんと私の実父の四人。なのに、家は無駄に6LDK、16畳の仏間付き。高機密高断熱構造で、夏は涼しく、冬暖か。立地も、海を目の前にする好環境。しかも、地域の人たちは、みんな、お義母さんの幼なじみ。お義母さんが家の外に出ていると、皆が気安く名前を呼び、声をかけてくださいます。
私の父親にとっても、大変に居心地のいい環境だったらしく、よく表で海を眺めながら、タバコをくゆらせていました。(親父のことは、また別に書きます)
やれ、これで親孝行ができる。
と安心したのも束の間、新居に移って半年した頃、お義母さんが呼吸のしづらさを訴えるようになりました。かかりつけ医の診断では、乳がんの再発で、胸膜に転移して、そのために胸に水が溜まって肺を圧迫し、呼吸が辛くなったのであろうとのこと。既に末期。手の施しようなし。
せっかく新居に移ってきたのに、このタイミングでの末期がんの宣告に、愕然としました。
程なくしてがん細胞は骨転移を起こし、義母が痛みをうったえるようになりました。
ある日の夕方も、お義母さんがしきりに痛がっていました。
お義母さん、どこが痛いん?
背骨が痛い。
じゃ、ベッドにうつ伏せになり。私が背中をさすってあげよう。
しばらくさすると、痛みがだいぶ和らいできたようです。「もういいよ」と言われましたが、こんな事で楽になるならと、しばらくさすり続けました。
その時以来、お義母さんは骨の痛みを訴えることはありませんでした。
これは後日談ですが、友人から「骨がんの痛みは激しく、死ぬまで痛みに苦しみ続けると医者に言われました。なのに、ジャイアンさんのお義母さんは痛みを訴えなかった。これは奇跡ですよ」と言われ、あらまあそうなのかと、お義母さんが亡くなってから諸天に守られていたことを実感しました。
話が前後しますが、義母が末期がんだと判明した頃、我が家の前で建築工事が始まりました。
何が建つんだろうと見ていたら、2階を自宅にしたクリニックが開院しました。我が家からはドアツードアで30秒の距離です。そこに、大規模救急救命センターでドクターヘリにも乗っていた元ERドクターの若手医師がやってきました。そしてその先生は、我が家の家族全員のかかりつけ医になりました。これが後ほどの大きな布石となるのですが、それはまた後のお話。
さて、自宅の中でも色んな事が起こりました。
妻は朝から外に働きに出ていましたので、日中、お義母さんと父親の面倒をみるのは、自宅で自営業をしていた私の役目です。三度の食事の支度はもちろんのこと、家の掃除や洗濯も私がやっていました。お義母さんの精神科と内科の通院にも、いつも私が付き添っていました。そして、認知症を発症していたお義母さんの謎行動に振り回されるのも私の役目。
日中、仕事に空きができると、私は二階の仏間で題目をあげ始めます。するとそこへ、階下からお義母さんが上がってきて、私の後ろに座ります。そして唱え始めるんです、念仏を(汗
お義母さん、違うよ!南無妙法蓮華経と唱えるんだよ!
すると素直に題目を唱え始めます。
後日、地域の婦人部(当時)のご協力もあり、お義母さんも創価学会に入会。形ばかりですが、創価学会員になりました。
問題は題目ばかりではありません。午後になると毎日のように「ジャイアンさん、シンドイ。病院(ここで言う病院は遠方にある大病院のこと)に連れてってぇなあ」と、しつこく訴えます。しかし、それは虚言。シンドイ気がしてるだけなので、私が無視し続けていると、「ジャイアンさんの人でなし!」と暴言を吐かれてしまいます(笑
当人は、夕方にはそんなやり取りのことはすっかり忘れていて(もちろん体調も問題なし)、「わたしゃそんな酷いことは言わんよ。ジャイアンさん、酷いなぁ」とのたまいます。そんな毎日でした。
お義母さんの病状は、しばらくは小康状態をたもっていましたが、やはりそこはがん。高齢なのでゆっくりではありましたが、確実に体を蝕んでいきました。
私の父親は既に要介護1でしたが(身体障害者でもありました)、お義母さんも要介護の認定を受け、自宅入り口に手すりも設置。介護用ベッドも手配し、さらに症状が進んできてからは、自室にポータブルトイレも置くようになりました。
そんな日常をおくりながら、私がひたすら祈るのは、お義母さんが健やかに毎日を過ごし、安らかに旅立つことでした。
まだお義母さんが元気だったころ、こんな会話を交わしました。
お義母さん、今まで苦労してきたんだから、これからは幸せに生きようねと。
その時のお義母さんの言葉は、よく覚えていません。「ほーかのー」とでも言ったのでしょうか。特別、喜んだ風ではなかったと思います。ただあの頃は、お母さんの周囲では時間が穏やかに流れ、気持ち安らぐ日々ではなかったかと思います。
お義母さんが末期がんの宣告を受けて約三年。とうとう日常的に酸素吸入が必要な状態になりました。
普通なら、ここで入院となるのでしょうが、我が家の目の前には、医師が24時間常駐してる(24時間開院しているわけではない)クリニックがあります。先生のご好意で、緊急時用の携帯電話番号も教えていただいていました。なので、自宅に酸素ボンベを搬入し、何かあれば、24時間、直ぐに医師が飛んでくる体制を、自宅に整えることができました。
また、時の不思議でしょうか、同時期に妻の働いていた会社が倒産し、妻は無職に。妻は、最期を迎えんとする母親の側に、心置きなくいることができました。それがどれほどお義母さんを安心させることになったでしょうか。
そして、忘れもしない2010年11月18日の深夜、お義母さんは危篤状態に陥りました。すぐに先生を呼び、往診。「今夜がヤマです」との診断。お義母さんの部屋は、緊迫感に満ちていました。
その部屋に私が入ると、私をみとめたお義母さんが、肩で息をする苦しい状態ながら、今にも呼吸が止まりそうなのに、上半身を起こし、私に向かって両手を合わせ合掌するのです。そして言うのです。ジャイアンさん、ありがとうね、ありがとうねと。これが、私とお義母さんの最後の会話になりました。
その夜は、ヤマを超えることができました。しかし、お義母さんにはもう、会話をする気力は残っていませんでした。ただ「シンドイ、シンドイ」と呟くだけです。私の姿が視界に入っても、もう私の方へ意識を向けることはありませんでした。
そんな状態が一週間続いた昼下がり、私が二階の仕事部屋でパソコンに向かっていると、階下から妻の叫び声が聞こえます。
お母さん!お母さん!
すぐに先生を呼びにクリニックへ走り、往診に来てくださった先生は死亡確認の手続きを。死亡診断書をすぐに書いてくださいました。
妻が言うには、彼女はお義母さんに添い寝をしていたそうです。ふとウトウトとして、気がついてみると、お義母さんが息をしていない。それで先の叫び声になったと言うわけです。お義母さんの体は、まだ暖かかったそうです。そして臨終の相は、まるで眠っているかの様に穏やかでした。
すぐに身内に緊急招集をかけました。多くの同志も集まって下さいました。私が導師で、全員で枕経をあげました。その様子を眺めていた遠方から駆けつけて下さった叔父は、クリスチャンなのですが、たいそう感動し、心から喜んでくださいました。
遅かれ早かれこの時が来るのはわかっていたので、葬儀の見積もりも取り、電話一本で手配できるようにもしておりました。そして、私が喪主で、友人葬を行うことになりました。
弔問に集まってきた近隣のご婦人方は、お義母さんの臨終の様子を聞き、口々に「私もあの様に死にたい」と言っていました。その様子に、お義母さんは、自ら題目を唱えることはほとんどありませんでしたが、その臨終の姿で、地域に創価学会の信心の凄さを見事に証明して見せたんだなと、しみじみ思いました。
このお義母さんとの一連の出来事で、池田先生が折あるごとに「親孝行をしなさい」と言われた意味が分かった気がしました。報恩とはこう言うことなのかと、それを身近で一番分からせてくれるのは、親孝行なんだと。私は心でお義母さんに感謝しました。
最後に、お義母さんの最期を看取ってくれた先生の一言を。
ジャイアンさん、あの状態から三年以上も延命するなんて、奇跡ですよ!
地域からの信頼も厚く、経験も豊富な元ERドクターが「奇跡」を口にする。この先生からは「奇跡」という言葉をもう一度聞くのですが、それはまた別のお話です。