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人は無理に変わらなくとも救われるのだニャア

青山ゆみこしゃんの『ほんのちょっと当事者』、には裏テーマがある気がしてにゃらにゃい。
読後、強くそのようなことを感じたのにゃ。

いわゆる「当事者の本」の場合、その多くはあらぬ批判にさらされることが多い。
『ほんのちょっと当事者』はそういう意味でも立ち位置がちょっとというかかなり異なっている。極めて共感的な感想が多いという点で。

批判を大いに受けた当事者本としては、たとえばその当時かなり動いた——八万部ほど売れた『高学歴ワーキングプア』(光文社新書)というものがあるのにゃ。大学院博士課程を修了した若手研究者の悲哀を当事者の目線で描いたものにゃが、アマゾンのコメント欄は「自己責任だろう」とか「そんなことわかっていたはず」だとか「嫌なら行かなければいいんだ」とかいった相当数の辛辣な批判にさらされたにゃ。


ということは、たとえそこに社会問題があったとしても、渦中にある本人たちがそれをそのまま取り上げるという行為は危険極まりないのだにゃん。

そういうこともあって、こうした炎上案件となってしまいそうなテーマは第三者が客観的立場で描くという手法が取られやすい。それが最も無難にゃから。

鈴木大介しゃんの『最貧困女子』(幻冬舎新書)なんかはそのようなものの代表格である。


一方、ズバリそのものの当事者であったとしても、立ち位置をずらすことで上手に批判の矛先をかわし「当事者もの」作品として成立しているものも少なからずある。

もうお亡くなりになってしまったが漫画家・吾妻ひでお の『失踪日記』(イースト・プレス)などは極北。アルコール中毒患者の当事者ものなんだけれども徹底的に自分の身に起こった出来事を〝苦笑するしかない〟世界へと落とし込むことで読み手からの反感を間違ってもかわないようになっているのにゃ。止められないのは自己責任だろう、などとの批判はついぞ見当たらにゃい。


似たような作品に、永田カビ著『さびしすぎてレズ風俗に行きましたレポ』(イースト・プレス)、というものもあるにゃ。こちらは、いくら寂しいからといって「普通ならあり得ないだろうその選択肢は!」と突っ込みたくなる道をあえて著者が選んだことで「そんな自分は一体どうなってしまうのか?」といったパロディー的要素が強い一品に仕上がっている。そしてその微妙(で極めて真面目)な笑いの世界が逆に読者の共感を呼び覚ましもしたにゃ。タイトルは一見ふざけているようだけど中身は至極大真面目というのもそれに貢献しているのだろうニャア。

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翻って『ほんのちょっと当事者』にゃ。

その描き方は前者のどれとも異なっている。

当事者として自分の主張を声高に叫ぶわけでもなく、かといって客観的に世界を描ききろうとするのでもなく、その世界を作品化(パロディみたく)しようとするわけでもんにゃい。

そこにあるのは、ただ自分と周辺世界との間における交流の文脈をありのままに素直に描こうとする実に抑制の利いた静かな筆運びだけである。

そのことが、著書の中で著者自身について触れる部分においても表れている。

<【引用 P171】三十五年前、困りごとを抱える人を意図して遠ざけようとしたわたしが、いまなぜ彼らと一緒の時間を過ごしたり話したりしたいと思うのか、自分でもよくわからない。わたしという人間が大きく変わったという自覚はない。>

著者は、(自分が変わった)などとは決して言わない。自分は何も変わっていない気がするのに、なぜか周囲の人や環境との接し方・交流の仕方に変化が現れたとだけ述べるにとどめる。

つまり、「昔から変わりがない——(変わりようがない)そのありのままの自分」をそのままに紙面上に描こうとしていることがわかる。

にゃぜだろうか?

その訳を考えながらページを最後までめくりきったときにふとある考えが浮かんできた。

それは、著者にとって「自分とは『変わってはいけない』存在なのだ」ということだろうということだ。それこそが重要なのだと直感的に理解したのにゃ。なぜなら、自分が変わるということは、その前の自分を下手をすれば否定してしまうことに繋がってしまうからだにゃ。

だから著者は、自分が変わってないということを所々で強調してみせる(その時点では意識的なのか無意識なのかはわからにゃいが)。しかしそれは決して強がりでないことだけはわかる。また単なる自己肯定でもない。要はそうでなければいけにゃいからそうしているだけのことにゃのだろう。

過去の自分をそのままに認めそして年月を経る中で遭遇する様々な日常のほんのちょっとした出来事を通して、 自分自身が経験し考え感じたことの蓄積が知と情の積層となって厚みを増していく。それはまるでバームクーヘンの幾重にも巻かれた薄皮のように自分を緩く柔らかく包み込む。

それが年月を経た自分の〝いま〟の姿となっていく。それは過去の自分というものが変化した結果ではなく、昔からの(幼い頃からの)自分自身そのまま(を軸)に〝今ここ〟を生きる自分の姿として立ち現れている姿なのであろうにゃ。

こうした手法でもって一冊を編んだ著者の意図を鑑みるに、それは自分自身への自分のための「救いの物語」を裏テーマとしたもうひとつの世界をそこへ描こうとしたのではなかろうかと思わずにはいられないのにゃよ。

人は無理に変わる必要などないのだ。いやなかったのだにゃ。

変わらないそのままにあって救われていく道を描き出す。
これぞ青山ゆみこしゃんが密かに本書へ盛り込んだ著者としてのほんのちょっとしたいたずら心であり、矜持であり、自分への(ちょっとでない)最大のご褒美にゃのじゃないだろうかニャア。

そうした救いの物語だからこそ、多くの読者が自分をほんのちょっと重ね「救われる当事者」となることで本書に共鳴しているように思うのだにゃ。


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三毛猫と博士
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