世界史 その30 セティ1世とラムセス2世
エジプト第19王朝と言えば、何と言ってもラムセス2世の知名度が群を抜いていると言えるでしょう。トトメス3世と並ぶ古代エジプト最大の軍事的成功と、それに続くヒッタイトとの対決と講和というハイライトに加え、67年にわたる治世、死亡時に90歳を超えていたとされる長寿。更には映画「十戒」でモーセの敵手として描かれたことで現代人の間での知名度は非常に高くなっていると思います。
さてそのラムセスの生きた第19王朝の時代について纏めていきたいと思います。
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第19王朝最後の王、ホルエムヘブは即位前からアマルナ改革の間に失われたアジアの領土の回復に努めた。
ホルエムヘブは軍人出身の宰相パラメセスを後継者に指名し、彼はラムセス1世として即位。老齢で短期間の在位で終わったラムセスに替わり、その子セティ1世が王に即位。このラムセス1世に始まる王朝が第19王朝と呼ばれる。
セティ1世は即位後すぐにカナンに遠征。その後もパレスティナからシリアへと領土を回復して、カデシュ近郊でヒッタイトと交戦した。またセティ1世はリビアやヌビアへの遠征も行った。国内ではアマルナ革命の舞台となったアケト・アテンを完全に破壊し、新たに多くの神殿を建設した。ここでは各地の神々を幅広く祀ることで突出した宗教勢力の出現を防ぐという、ホルエムヘブ以来の方針が受け継がれた。
この王の晩年に数年摂政を務めた後、王の座についたのがラムセス2世である。彼は父の方針を受け継ぎ、繰り返しアジアへと遠征した。このため、かってのヒクソス王朝の都・アヴァリスを拡張し「ペル・ラムセス(ラムセス市)」として、遠征の後方拠点とした。
2回目の遠征ではカデシュを巡りヒッタイトとの間で大規模な戦車戦が展開された。単に「カデシュの戦い」と言う場合は、この戦いを指す。ヒッタイトの項でも触れたが、この戦いは準備段階から戦いの展開までの詳しい記録が残された最古の戦いだと言われている。もし機会があれば、この戦いについてもより詳しく纏めてみたい。
エジプト王ラムセス2世、ヒッタイト王ムワタリ2世の双方が戦地に赴いたこの戦いでは、エジプトはカデシュを陥落させることができず、戦術的には引き分け、戦略的にはヒッタイトの防衛成功と言うことができる。ただしエジプト側も北シリアまでの勢力圏の確認という意味では成果があったとも言えるかもしれない。
現実がどうあれ、ラムセスはこの戦いを大いに宣伝に利用した。エジプト側の銘文では、ムワタリの計略によりヒッタイト本隊の位置を誤認したことでラムセスが自ら率いるアメン軍団は敵中に誘い込まれ危機に陥ったが、ラムセス個人の武勇によって戦局を打開し勝利したとされている。
カデシュの戦いの後もラムセスはアジアへの遠征を繰り返したが、ヒッタイトがムワタリの弟・ハットゥシリ3世へと代替わりし、またアッシリアの脅威が強くなると、ヒッタイトとの融和に転換し、紀元前1269年ごろ平和条約を締結するに至った。後にハットゥシリ3世の長女はラムセスの妃の一人となっている。
平和条約によってアジアの領地が安定すると、ラムセスはアブシンベルをはじめ巨大な神殿を多数建立し、自らを神格化して神々の列に並べた。
ラムセスと言えば驚くべき長寿と子だくさんでも知られている。ミイラの解析では死亡時の年齢は90歳前後と推定され、在位は67年と記録されている。正妃7人と数十人の側室を持ち、百数十人とも二百人に迫るとも言われる子をなした。
ラムセスのあまりの長寿のため、多くの後継者候補がラムセスよりも先に没した。最も有名なのは第4王子カウムウアセトで、賢者の誉れ高く宰相として王を支え、またピラミッドやスフィンクスの修復により「最初のエジプト考古学者」と呼ばれる人物である。
ラムセスの死後、第13皇子メルエンプタハが継ぐ。このメルエンプタハの治世には、エジプトに迫る新たな脅威が深刻なものとなっていくことになる。
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ラムセスの治世でいったん区切るか第20王朝の最後まで進めるか、かなり迷いましたがここで筆を置きます。ヒッタイトとエジプトの戦車の導入とか、映画『十戒』とか本文に組み入れたい内容もありましたが、上手く組み込めず断念。もっと参考資料を読み込んだら、独立した記事にできるかもしれません。
ちょっと歴史以外のジャンルに気が向いてしまったり、色々で難産でした。ここまで読んでいただけたなら嬉しいです。
トップ画像はパブリックドメイン検索サイトから借りてきた「Temple of Ramses II (1905)」というタイトルの画像です。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。本業のサイトもご覧いただければ幸いです。