世界史 その26 エジプト再統一・新王国への道

 第13王朝が衰え、ナイルデルタにヒクソスの第15王朝が成立した頃は、エジプト各地で領主たちが「王」を名乗る混乱の時期だったらしい。しかし「王」たちがより強い「王」の庇護下に入ることで、エジプトの勢力はナイルデルタの第14・15・16王朝とテーベの第17王朝に集約されていった。ただし第14王朝・第16王朝の実態はよくわかっておらず、実際には第15王朝に従属したり、独立していたりしていた多数の「王」を便宜的にまとめてあるだけという可能性も少なくない。
 また南方ではクシュを本拠地とする勢力がヌビアで勢力を伸ばしており、エジプトの国力が衰えると、中王国時代にエジプト領となっていたワワト地域にも進出、古王国時代の境界である第1急湍きゅうたんまで勢力圏の境界を押し戻していた。
 以上が第2中間期後半の情勢となる。

 ナイル上流にヌビア人の王国、下流にヒクソスの王国が存在している状況を、第17王朝後期の王は異民族による支配と認識し、エジプトの再統一を試みた。エジプト人の民族意識に訴えながら、ヒクソスの持ち込んだ武器や戦術を採用し、エジプト史上初めて職業軍人が社会階層としてあらわれた。
 第17王朝の14代目のセケンエンラー・タア(セケンエンラー2世)はアヴァリスの第15王朝に戦いを挑んだ。第19王朝時代の碑文によれば、テーベの神殿で飼われている河馬の鳴き声が、遠いアヴァリスの王の安眠を妨げているので殺せという理不尽な要求がセケンエンラーに戦いを決意させたという。
 戦いの推移は詳らかにはなっていないが、セケンエンラー・タアのものとされるミイラは頭部に激しい損傷をうけており、王が戦場で命を落とした、または捕虜となった後に殺害されたことを推測させる。
 セケンエンラーの死後、一時的な和平が結ばれた。王位を継いだカメスはアヴァリス・テーベ・クシュの君主が対等に並び立つ状況に満足する廷臣たちを押し切り、再び戦争に乗り出した。
 まずヌビアに進出したカメスは、中王国時代の支配地域であるブヘンまでを勢力下に収め、続いてアヴァリスに与する都市を攻撃した。ナイルから離れたオアシスでは、アヴァリス王アポピからクシュの王へ向けた、テーベの挟撃を提案する書簡を持った使者を捕らえた。その後カメスは水軍を駆使して、第15王朝の本拠地であるアヴァリスに迫った。アヴァリスを陥落させるには至らなかったが、アヴァリス周辺を略奪して凱旋した。

 続くイアフメス王は即位20年頃から、アヴァリスに対する最後の戦いを挑んだ。この頃にはすでに古都メンフィスまでがテーベの支配下になっていたようで、王が本格的な侵攻を開始するまでにも、テーベ側が少しずつ支配地域を広げていたと思われる。
 水軍による数度の襲撃の後アヴァリスは占領され、次いでパレスティナとの境界に近い交易都市シャルヘンが包囲された。3年の包囲の後シャルヘンは占領され、虐殺と略奪があった。その後恐らくエジプト北部とヌビアでおきた二つの反乱の鎮圧を経てエジプトは再統一され、これ以降が新王国と呼ばれることになる。セケンエンラー・タア、カメス、イアフメスは同じ王家に属すにもかかわらず、マネトンはイアフメスをもって第18王朝の始祖としており、現代の研究者も慣例的にこれに従っている。

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 セケンエンラー・タアがアヴァリス側からの理不尽な要求によって戦争を決意したというのは、おそらくフィクションでしょう。第17王朝のエジプト統一への熱意は、パレスティナやアフリカ南部からの交易がナイルデルタとヌビアの敵対勢力に抑えられているという経済的な不満が第1にあるのは容易に想像がつきますが、エジプト統一と異民族支配の排除というイデオロギー的な動機は建前だったのか、完全に本気だったのか興味のあるところです。

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