生きのびたゾウとゾウ列車 #家族の語る歴史
「ぞうれっしゃがやってきた」という絵本をご存じでしょうか。有名な「かわいそうなぞう」の絵本で描かれたのと同じ太平洋戦争の過酷な時期を、こちらは生き抜いて戦後の子どもたちに希望を与えたゾウたちの話です。
この本の舞台は名古屋の東山動植物園。本の内容は史実で、実際にも動物園の関係者は上野動物園と同様、猛獣の処分を求める軍部や世論と戦いました。そう、動物たちの命を守ろうとする人たちは世論とも戦わねばならなかったのです。やむを得ず処分される動物たち。かろうじて殺処分を保留されたゾウたちも、餌の不足に直面し飢えと病に4頭のうち2頭が斃れます。しかし職員たちの必死の努力と、動物園内に運び込まれた軍馬の飼料をゾウに与えることを見て見ぬふりをしてくれた獣医部将校の存在により、2頭のゾウが終戦の日まで生きのびることができました。
昭和12年の開園時点で東洋一を謳われた東山動物園はゾウ2頭、チンパンジー1頭、カンムリヅル2羽、カモ20羽、ハクチョウ1羽を残すのみとなっていました。終戦の時点で日本に残っていたゾウは、東山のマカニーとエルドの2頭だけでした。
戦後、東山動物園は早くも昭和21年の3月17日に営業を再開しました。生き残った2頭のゾウは大変な人気だったそうです。
ところが戦争でゾウを失った東京の子どもたちから「ゾウを譲って欲しい」という声があがるようになりました。この声は遂に東京都知事からの正式な陳情となり、昭和24年4月の上野動物園長が東山に来園しての交渉で、一度は1頭を貸すことで話がつきかけました。
ところがマカニーとエルドを引き離そうとしたところ、エルドはひどく暴れ、壁に頭を打ちつけて流血するほどだったので、東京へゾウを送る計画は断念されました。
そこで替わりに計画されたのがゾウ列車で、昭和24年6月の彦根からの1400人を皮切りに、関東から近畿までの各地から特別編成の専用車両で子どもたちを東山動物園に迎え入れたのです。ゾウ列車はその年の秋まで運行されました。
そしてその年の9月には上野動物園にタイからはな子、インドからインディラが到着し、インディラは移動動物園として全国を巡業しました。
その後、マカニーとエルドは昭和38年の9月と10月に相次いで亡くなりました。東山動植物園のサイトには「2頭の固い結びつきを示すような宿命的な死であった」と書かれています。
この文章は東山動植物園のサイトを主に参考にし、Wikipediaの象列車の項目で若干の補足をしました。特に東山動植物園のサイトは園の歴史について充実しているので、より詳しく知りたい方は是非ご覧ください。特に戦争中の話については「動物園の歴史」「植物園の歴史」と独立して「物語「生きのびた象」戦前戦中の東山動植物園」というコーナーが立てられています。
さて最後に私の母の言葉を紹介したいと思います。母は昭和22年生まれですので、同時代の証言というには少し若すぎるのですが、
「自分たちで死なせておいて、一頭よこせって言ってきたんだよぉ」
と。
「えぇ・・・」
という反応しかできませんでしたが、それは当時の名古屋の子どもの偽らざる本心だったのかもしれません。
ヘッダー画像は現在の東山動植物園にいるアジアゾウの母子、アヌラとうららです。このように動物たちの姿を愛でることができるのも平和であればこそですね。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。本業のサイトもご覧いただければ幸いです。