同期のみんなと、飯食う者たち。
今週は、うでパスタが書く。
先週キノコさんが書いた「食わず嫌い」が面白かった。
キノコさんと僕はともに家事を本業とするイマドキな男性だ。
しかしどちらも厨房の主であるわりに、どちらかというとキノコさんはエピキュリアン、つまりひと昔前でいう「グルメ」であってSNSを見るかぎり結構いいものを食っている。こないだは「あれどこの店で食ってるんですか」と訊いてみたら「任意のレストラン」とわけの分からないことを言っていた。
一方の私はある種の狂人だということもあり、食べることは好きだがこと食に関しては冒険が嫌いなのでいちどうまいと思ったら同じものばかり何回も何回も食うタイプだ。
学生の頃には一人暮らしをはじめた自由に任せてソーセージエッグマフィンを八十二日間食い続けたことがあって、手帳につけたら最終的に百三十いくつになったのだが、結局はそこでやはり食べ飽きてしまった。
このとき若いなりに考えていたのは
「この世に良いものと、良くないものという区別が存在するのだろうか?」
「仮に良いものが存在するとするならば、その『良さ』は果たして永遠に枯れることがないのだろうか?」
というような命題で、朝のマクドナルド参りは僕なりの身体を張ったフィールドワークだったのだが、いったん結果は「永遠に続く良さ、ソーセージエッグマフィンに確認されず」で終わった。
この頃バイブルにしていたのはこんな本だ。
ところで西洋には「美は見るひとの目に宿る(Beauty is in the eye of the beholder)」という言葉があるが、これは要するに「価値は価値観から生まれる」ということを言っている。
先の「ソーセージエッグマフィン実験(エクスペリメント)」に照らしていえば、僕が試していたのは「ソーセージエッグマフィンのうまさは永遠か」ではなく、「僕はいつまでもソーセージエッグマフィンをうまいと思えるか」ということに過ぎなかったとなる。
これはつまるところ、
「この世には良いものも悪いものもなくて、あなたが愛するならばそれは愛すべきものになる」
ということを意味するが、僕はこれを「安っぽいヒューマニズム」と呼んでもう三〇年以上ものあいだ激しく憎み続けている。だからこそ僕はあの年ソーセージエッグマフィン実験をやり、そこは一敗地に塗れたというわけだが、しかしあなたはたとえば「自分が好きだから」というだけの理由で人類史上のベストミュージシャン一位に凛として時雨を持ってくる人間を許すことができるだろうか?
※ここではほとんど関係がないが、“Eye Of The Beholder”という原題のひどい映画にユアン・マクレガーが主演しているので一応その紹介だけしておく。
キノコさんのノートに結構つらい言及がある。
食は3代という言葉もあるように、味覚というのは経験値というのがダイレクトに反映されるもので、まあ好き嫌いが多いなんて言うと育ちが悪いと言われたりもします。
(「食わず嫌い」- Bibliotheque de KINOKO Weekly Magazine)
「食事に育ちが出る」という話を聞くと、まず最初に思い出すのが自分自身のこと、その次が「太陽がいっぱい」という映画だ。
これは貧しい育ちの男が金持ちの友人を殺害して彼の暮らしや恋人を手に入れようと謀(たばか)るノワールで、友人の血で手を汚して最後は官憲のお縄となる貧乏人をアラン・ドロンが演じている。
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