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市民、銃声を聞け。慟哭を。|weekly

今週は、うでパスタが書く。

Bibliotheque de KINOKOというこの図書室の屋号を、ウィークリー・マガジンのタイトルを読めず、「びぶりお何とか」と言及しているひとがかなりいることが分かってきた。嘆かわしいというほかはない。

もとより読者の知性にあわせるようでは本末転倒の謗りを免れぬ本noteであるからに、知らぬ顔でつづけることにもまた一片の理(ことわり)があろうというものだが、とはいえ九段下の家賃ぐらいは収入でまかないたいねと言って始めたプロジェクトでもある。
あまつさえキノコさんはこの全世界的な株高に背を向けて株を売り、マンションを買うという非常にまずい一手を打ったところだ。よく感じることとして、世の「ビジネスマン」たちはパートナーに対する評価をコロコロと変えすぎるが、これは間違いである。私はキノコさんをパートナーとしてのみ九段下に私設図書室を営むことにしたのであり、キノコさんの極めて私的な苦境にあってもそれを共にしたいと願うものだ。

よって、ここで純粋にマーケティング的な観点から九段下・Bibliotheque de KINOKO Weekly Magazineは三月に控える一周年をもって名称をリニューアルする。
正直に言えば、こういうリニューアルはそれだけである程度ユーザの活性をもたらすというのがウェブマーケティングの基本である。
あらたな名称はすでに決定しているが、これは変更をもってお知らせに変えさせていただく予定だ。

先日、生まれて初めて睡眠外来というところへ行った。
患者本人としてはこれがどうしてなかなか深刻な問題だが、しかしあれだけ贅沢なオフィスへ訪ねていって「よく眠れないんです」なんてことを相談したあげくに診療報酬二千円などというのは、やはり他の国ではなかなか考えにくいことであろうし、「日本の健康保険制度すげぇなぁ」とあらためて感じたところである。

「日本において生命保険や医療保険への加入は多くの場合、必要ない。健康保険制度が手厚く保護しているからだ」ということを、もともと保険会社にいたOBなんかがたまに書いて本にしている。
「保険はギャンブルだ」というのは感覚としてはひろく共有されているのだろうけれども、このギャンブルは最初から「得をしよう」と思って参加するひとがいないので、ハウス、つまり保険会社のワンサイドゲームになりがちだ。各戸・各ご家庭にさまざまな事情や感情がおありになろうとは思うが、availableな制度について、その将来も見据えたうえでいちど冷静になって考えてみること自体、無駄であるとは思わない。

これを信じて、というわけではないけれども私は貯蓄性のない保険商品を抱えていない。
六年ぐらい前に妻の乳がんが発覚し、東京へ飛んできた義母が保険について心配してくれたときに、「加入していません」と答えるのはつらかったが、実際のところはやはり健康保険の「高額医療費限度額適用認定証」というのを取り寄せて乗り切った(「乗り切った」とは言うが、差額ベッド代なんかは当然自己負担している)。

いまではだいぶん広く知られるようになったこの制度だが、ふつうに考えて訳の分からないぐらい手厚い福祉だと感じる。「この費用、誰が負担しているのか?」と考えずにはいられないが、日本の社会保険料というのは逆進性があることが指摘されていて、保険料にはキャップがあるので収入の多いひとほどたくさん払っている、というわけでもない。そしてこの世にフリーランチは存在しない( There Ain’t No Such Thing As A Free Lunch )。いつかこのツケは回る。

つまるところ、この制度ももちろん少子高齢化に伴い先行き長くないことは論理的に考えて明らかだということで、その将来がいまから惜しまれてならない。
しかしそれはそれとして、「働いても働いても報酬があがらず、高齢者の社会コストを負担させられる日本にとどまるなんて愚の骨頂」などとSNSで発信しつつ海外でPCひとつの仕事をしながらリバタリアン的な価値観とライフスタイルを唱導するタイプの日本人が、大病や出産、あるいは虫歯の治療をするたびに帰国してはこっそり日本の医者へかかっているのを見るにつけ、「おまえはそんなフリーライドをやりながら、及ばずとはいえ務めを終えた高齢者をよくも悪く言えたもんだな?」と、その厚顔には呆れかえるばかりだ。

他方、こちらは姑息とは言わないが、八〇年代から九〇年代にかけて日本の社会が激変するなかで海外へ活路を見出し、場合によっては異国で子育てを終えたシニア世代なんていうのもぼちぼち「終活」を口にしはじめている。そんななかには「医療費の安さ」を理由に日本へ帰国したがっているというような話もちらほら聞いており、なんとも言えない気持ちになる。
日本の医療費はなぜ安いか、ということをそういうひとたちはどう考えているのだろうか。

とはいえ、コスト負担の公平/不公平にかかわらず、こうした人々が日本国籍を保持する国民であることは疑いを容れないわけで、何を言ったって最後は日本のパスポートを持ったひとを真先に保護し、受け入れるのが「国」である。
「日本のパスポート最強説」みたいなことがネットではもうたびたび見られるわけであるけれども、これを言うひとに上述のようなお気持ちリバタリアンが多いというのはさておき、パスポートの「価値」ということでいえばもっとも感心したのは、あるおじさまがホーチミンシティの飲み屋で言っていたこの一言だ。

「日本のパスポートを保持する国民の入国を、どんなことがあっても日本は拒むことができない。それが母国ということだ」

なんのかのと言って、“FOREIGN PASSPORT” の列に並んで係官のうろんな目線に耐え、ともすれば別室へ送致されながらついに異国へと入国を果たすまでのあの時間にはえも言われぬ緊張がともなうものだ。「最強」だとか言う日本のパスポートでもってしても、「絶対に入国を断られることのない」国は世界にただひとつ、日本しかないのである。

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