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オートモーティブ/どこからも遠い場所|weekly vol.077

今週は、うでパスタが書く。

自動車が、もうすぐ自動になる。
「自動車」というのはそのまま英語のautomobileから来ているのだろうが、お気付きのとおり自動車はそもそも全然autoではないし、少なくとも過去八〇年ぐらいはテクノロジーの進歩とともにドライバーは忙しくなる一方であって、このネーミングセンスこそまさしくAUTOであるというべきだ。

TVアニメーション「機動戦士ガンダム」ではホワイトベースがジャブローへ寄港している際にアムロが車を運転するシーンがあるが、あの車はその名を「エレカ」といって要するに電気自動車であることが設定されていた。しかしその一方、ガンダムのAパーツとBパーツ、コアブロックが空中合体できるのに自動車は自動になっていないというほどに自動車の自動運転は夢のまた夢であったといえるだろう。

※当該エピソードは第三〇話「小さな防衛線」

しばらくまえに「米テスラが電気自動車を作っている」という話を聞いていたら、いつのまにかこの会社は自動自動車の開発をしていて、まぁふつうに何人か客が死んだりもしつつ、いよいよどうやらテスラの自動車は自動で動いているっぽい。ただしそこは法律の問題とか、いざ裁判で負けると賠償金額が半端じゃないというような事情のせいか、「自動になりました」とは、まだイーロン・マスクは言っていない。

ボストンに住まわっていた際には、たしかに街にテスラのショールームがあったりなどして、それはたとえばららぽーとでテスラが売っているというような風情であったかもしれないけれども、やはり妻の知人にも家がテスラオーナーというひとがいて、いちど夜中に乗せてもらって帰ってきたことがある。
私は実に自動車の運転が下手で、あとは頭の調子がちょっとアレだというのもあるので道の逆サイを走るとかはまず無理だと思ってボストンには五年近く住んだのにただの一度もハンドルを握ることがなかったが、妻はさらにそれを上回って卒業検定から二〇年ぐらいいちども運転をしていないそうだ。あと性格的にも絶対に運転させてはいけない。
おかげで我々は住むのは住むに便利なところへ最後まで居を構えていたわけだが、そこへテスラで送ってくれた紳士が道すがら「きみは車は運転しないのかい?」と訊くので妻がかように答えると、紳士は困ったように、「うん…まぁでも車はもうすぐ運転しなくてもよくなるからねぇ」と答えたそうだ。
この、アメリカ人というかアメリカの社会全体が抱く科学的な、技術信仰的なオプティミズムというのは本当に興味深いし見倣うべきも多々あると普段から思いながら、ことテスラについては「ひとが死んでんねんで!」というのもあるし、じゃあプリウスのブレーキが戻らなくなって一家が非業の死を遂げたとかいう濡れ衣で豊田章男が公聴会に引きずり出されたトヨタはいったいどうなるのかというのも含めて考え出すとキリがない。

とまれ、自動車はまもなく自動になるという。
転居にあわせあらたに自動車を取得した私は納車前に代車をあてがわれ、一五年ぶりぐらいで日常的に運転をしているが、精緻化したナビゲーション・システムをはじめとする様々な安全装置からやれああしろ、こうしろとひっきりなしに指示をされ、いまのところ私は私自身が自動車のなかでもっとも勘の悪いパーツとしてハンドルを切り、ペタペタとペダルを踏んだり引いたりしている。
これならいっそ私を取り替えてくれ、という思いはたしかにある。

アップル・グリーンに輝く流線形の車体に高性能の陽電子頭脳を搭載した完全自動制御の夢の車、それが“サリー”だ。ところが、そのサリーを盗みだそうとする、とんでもない男が現われた! ——Amazon.co.jp
「サリーはわが恋人」(アイザック・アシモフ/早川書房)

僕の育った村は都会にはほど遠く、ちょうど郊外が田舎に切り替わるそのどちらとも言いがたい崖っぷちにあった。
村をつらぬいた唯一名のある狭い街道沿いに同い年の男の子が僕をふくめて四人生まれて、それは集落の人口から考えれば奇跡的ともいえる人数だったが、マクロにはこれが団塊ジュニアということであり、もっといえば二〇年後に社会から手荒い洗礼を受ける氷河期世代の、これが不幸の始まりだったということになる。
僕の父は土地柄あたりではめずらしいホワイトカラーで、村ではあまり見ないセダンは免許のない祖父が金を出して買ったということだったが、周囲には兼業農家も多く、だいたいの家には軽トラが一台か、あるいは軽がもう一台ということが多かった。

四人のなかでももっとも陽気で運動に長けていたのはNだった。
幼稚園からはやくもクラスの人気者だったNは小学校でもすぐに学年みんなのアイドルのひとりとなって、テレビでやっている流行りのネタをまじえるウィットに富んだトークには先生たちも大喜びで、毎朝一緒に登校する僕たちはNの幼なじみだというそれだけでいつも誇らしく、鼻が高かった。
Nは野球が好きで、得意だった。
まだプロスポーツといえばプロ野球が圧倒的に人気だった時代の子どもだった僕たちは、どこへ行くにも何につけグラブとボールを持って集まったが、少年野球のレギュラーで監督にも目をかけられていたNに僕たちはすでに物足りない練習相手になっていた。
幼稚園の誕生会で「将来の夢」を書け、と開かれたブックレットのページに僕は「ぷろやきゅうのせんしゅ」と書いてくれ、と先生に頼んだ。本当はNのような子どもがいずれプロになり、テレビに出るのだと分かっていたが、それでも小さなこの村を出て、「世界」へと船をこぎだすための将来像は幼い僕の想像力の手にあまり、少年野球の誘いも断ったくせに壁の的へ向かって僕もまた定まらない球を毎日毎日投げ続けていたのだった。

Nの家には自動車がなかった。
そういう意味ではNの家には電話も引かれておらず、幼稚園でおなじクラスにあがると連絡網にはうちの下にNの名前だけが書かれており、電話がないので何かがあると僕の母がつっかけを履いて三軒となりのNの家へ知らせにいっていた。
Nには歳の離れたやや荒くれの兄がいた。家は四人が暮らすには充分な庭付きの二階建てで、その庭にはたしか小さなブランコがあった。Nの父親は駅前にある小さな工場へ自転車で通っていて、家へ遊びにいくとテレビのある居間にはその工場のマークが付いた通函が積まれており、僕たちが遊んでいるあいだ中ずっと、Nの母親はそこから取り出した小さな何かに一手間を加える内職をやっていた。僕たちは晴れていればいつも必ず外で遊んでいたから、思い出のなかでNの家の窓から見える外の景色は曇っている。
Nと兄はあるとき念願のファミリーコンピュータを買ってもらうが、遊びにいった僕たちが下手なのですぐ死ぬ割にNがうまいのでずっとコントローラーを握っていると、それを見たNの母親が「おまえだけがずっとやっているじゃないか、そんなことなら買うんじゃなかった!」とそれをこっぴどく叱りつけていたのを覚えている。そうすると母親に弱かったNは半べそをかきながら、いやいやコントローラーを僕たちに譲った。

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