セッション・オブ・オブセッション/そのコストはいつも、後になって支払うことになる|weekly
今週は、うでパスタが書く。
不慮の事故で家族を失い、「これからも妻と娘の三人で、ずっと幸せに暮らしていくんだと想像していたのに」と悔しげに吐き出すひとを見た。
愛する者の喪失に心を寄せることは難しくない。
しかしその人生観、世界観は私のそれとは相容れない。
私はこれからこの暮らしがずっと死ぬまで続いていくと想像したことが少なくとも過去四半世紀、ない。
人間には、自分が怖れたいと思うものを怖れる自由がある。
コスコ(Costoco)で三十ロール入りのトイレットペーパーを何個も買う人間。恐怖に駆動されているのか、そもそも愚かすぎて反射を制御できない人間だ。この手のひとびとは解禁されれば銃も買うだろう。アメリカは国民の税金(それから債権者の金)を投じて「世界を七度もフライにできる」と言われる規模の核軍拡競争をつづけ、国民はこれを支持しつづけた。
だが我々のなかには、多かれ少なかれこうしたパラノイアが存在する。
それをパラノイアだと認めたうえでもなお、自由になることは難しい。
アメリカ現代史をパラノイアの歴史だと捉えてやむことのないドン・デリーロは、その歴史的な奇書「アンダーワールド」で、二〇世紀後半の神経症的なアメリカ精神を極めてミクロな、ひとびとの心の機微において克明に描いている。
アメリカの繁栄を信じ、そこに生きる自分たちの現実を信じながら、「もしかして」という怖れを払拭できず臆病さの洞窟を奥へ奥へと後退していくアメリカ市民。
右から左へと大量の消費活動をつづけて振り返ることのない社会のなかで、ゴミ処理業者であるニックだけは几帳面にゴミを分別し、日常の継続をそのリズムに依存している。
あるとき、ニューヨークの貿易センタービルを眺めるニックにひとりの男が語りかける。
「このビルがぜんぶ粉々に崩壊するのが目に浮かびませんか?」
彼は俺の方を見た。
「それがこのビル群の正しい見方なんだと思いませんか?」
(「アンダーワールド」ドン・デリーロ/新潮社)
「アンダーワールド」が発表されたのは一九九七年、奪われた二機の旅客機によって実際にふたつの塔が崩落する四年前のことだ。
だがこの作品の重要性は、同時多発テロを予言したことにあるのではなく、それが何を破壊したかを暗示するところにある。
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