この世でただひとつ、信じたいものを疑う能力の名前。
今週は、うでパスタが書く。
「今週は」と言ったが、このマガジンが更新されるのは今週二回目のことになる。なぜなら先週の更新をキノコさんが落としていて、こないだの火曜日にようやく投稿したからだ。
ノートの冒頭で謝罪します、と連絡してきたキノコさんに私は「やめておけ」と言った。月にたった三百円の購読料だ。たまには読者にもその立場を分からせてやる必要がある。それにいまキノコさんが謝ってしまえば、いずれ私も謝らなければならない日が来るだろう。それだけは絶対に嫌だ。
僕がその大学へ最後に足を踏み入れたのは、小学二年のときだった。
ある日曜の朝、暇をもてあまして両親を起こしにいった僕に父親が、「お父さんの大学へ来い」と誘ったのだ。
父は大学の教授(正確を期せば当時は教授ですらなかったが)にしても変わり者で、結婚式を挙げた翌日には母に弁当を作らせて朝から仕事に出ていたというし、僕が物心ついてからもずっと正月は元旦の午後から出勤していた。
父の職場へ訪ねていくのはそれが初めてではなかったが、この日は週末で特に来客があるというわけでもなく、「研究を手伝え、千円やる。そこから自分の昼ごはん代を出して一日を過ごすんだ」という誘いは子どもの僕と戯れることのほとんどなかった父からの実にめずらしい持ちかけであり、日頃から習い事の一切を拒絶して家にいた僕は嬉々としてこれに乗った。
父も研究者の端くれとして、「いつかストックホルムへノーベル賞の授賞式に連れていく」と母に約束をしていた。僕は幼い頃にそれを聞いていたのを覚えている。
やがて歳を重ねるにつれ、父はノーベル賞の話をしなくなった。だが母は何年かに一度、着物を新しく仕立てるたびに「これはノーベル賞の授賞式に着ていくためのもので…」と言って父を黙らせていた。
僕たちは電車を乗り継ぎ、途中のパン屋で昼ごはんのサンドイッチを買い、人気のない研究棟の一室へ入るとガラスのチューブを洗い、試薬を入れたそれを撹拌器にセットしてタイマーが終わるのを待った。
たった一度の、僕が父の「本当の仕事」を手伝った日曜日。
僕の記憶に残るなかで、これがほとんど唯一の父と過ごした幸せな時間だ。父にとってもそうであることを祈りたい。
もう十年も前に、父は大学を定年退職した。
研究者としてのキャリアはもっと早くに終わっていたが、後進を育てる教育者としてのキャリアにピリオドを打つ最後の講義は記念講義で、教室は父に所縁のあるひとや僕のような外部の人間にも開かれていた。
たまたまのことだったのか、または意図されたものだったのかは分からない。最終講義は多くの科学者が教壇に立つのを嫌がる授業で、だからこそと言って若い頃から長年にわたって父が引き受け、ライフワークにしてきた科目だった。それは「文科系の学生のための科学概論」だ。
生まれたときからある日丘の上で握手を交わして袂を別つまでの二十年あまりにわたって父に食わせてもらってきた僕は、研究室で過ごしたあの日曜日をのぞけば父の仕事をほとんど知らない。
初めて目にする教壇の父はとてもそれに慣れていて、自然で、素面だとは思えないほど饒舌だった。僕はまさにその授業がターゲットとする文科系の人間だが、父が四十年のキャリアの最後に置いたその講義は僕にも分かりやすく、壮大で、最後に少し父の悔しさがにじんでいた。
そして試験も間近に迫った教室に学生の姿はあまり多くなかったが、事務が急遽教室を変更しなければならなかったほど満員に入った聴衆に親しげに語りかける父の話法はなぜか僕のそれとそっくりだった。もう二十年近くのあいだ、僕たちが親しく言葉を交わしたことなどなかったのにだ。
僕が幼い頃、父はいつも「論文」に苦しめられていた。
なぜ「論文」はそんなに大変なのかと尋ねると、父は確かこんな風に答えたと思う。
「論文は次のうちのどれかでなければならない。つまり、新しいことを発見するか、誰かの言ったことが正しいと証明するか、間違っていると証明するかだ」
幼い僕に論文の重圧はあまりに過酷なものと思え、僕は母に相談をした。自分はいつか大学へ行っても、「論文」を書ける気がしない。いまからそれが心配でならないと。
母はこう答えた。
「あなたが幼稚園のときなら、『自由研究』なんてものができるようになるとは思わなかったでしょう。でもいまはできる。大学へ行く頃には同じようにあなたにもちゃんと『論文』が書けるようになる」
母は文科系だ。
そういうものかとそのときは納得したが、あのときの僕の不安を杞憂とすることはできないように最近はますます思う。いよいよ大学が事実上の「全入時代」となり、しかも理数系が盛大にリバイバルを迎えるなかで、「四大卒」の学士は役に立たなくなりつつある。しかし論文として成立する論文をみんなが書いて学位を得るようなことが本当にありうるのだろうか。
高いハードルにチャレンジしなければ研究者としての成果はあがらないが、そのハードルを越えられなければ研究者ですらなくなってしまう。「生産者」とはまた違う厳しいスタンダードが研究者にはつきまとう。
かつて父は博士号を得るのに九年という時間をかけた。僕の家に伝わる過酷な伝統にならい、ようやく初任給を得る三十歳の正月まで毎年お年玉をもらい続けた父の人生に九年の歳月は暗い影を落とし、それは翌年生まれた僕との関係に尾を引くことになる。
研究不正はなぜ起こるのだろうか。
スキャンダラスな論文捏造が話題にあがるたびに繰り返されるこの問いは重要な事実を見落としている。
不正はあらゆるところで起こっているのだ。
それは企業で起こり、家庭内で起こり、不正を報道するメディアにおいても起こる。
研究不正の特別なところは、そもそも研究において不正は起こらないと前提されていることだけだ。
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