精神|2022-04-29
今日は、うでパスタが書きます。
突然ですが「国民性」というものの存在を、あなたはどれほど信じているでしょうか。
実はこの質問は少しいじわるで、どう答えようとも実際にはおなじひとが日々の暮らしのなかで国民性の存在を否定してみたり、逆に主張してみたりしているが、それはなぜかというのが今日の話題です。
最近では私たちが「日本人は」「アメリカ人が」「フランスでは」などという言い方をすると即座に「主語がデカい」とバッシングを受けて、主張しようとしたことなどまるで存在しないかのように(「事実でないかのように」よりひどい扱いです)葬り去られてしまうのがあたりまえになっています。最後の例に至ってはそもそも主語ですらないにもかかわらず、です。
こうしたヒステリックな反応は、ひとつにはいわゆる「出羽守」と呼ばれるような、私たちの社会と「その他の社会」を比較することで何をか言わんとするひとびとからその主張を押し付けられることを未然に防ぐための牽制です。その主旨は「どんな社会にもいい面と悪い面があるんだよ、西欧社会を理想のように崇めたてまつり、日本のシステムには向かない文化からパーツだけを借用してきたらそれで問題が解決するかのようなことを言って利口ぶるのはやめてくれ」といったあたりでしょう。
しかしより「主語」の問題としてこのヒステリーに寄り添って考えてみるならば、そこには「いや、アメリカ人にだっていろいろいるでしょ」という多様性の精神に則った批判が込められていると言うこともできます。
このとき盛り上がる議論(というかデュエル)には多くの場合、「数年しかアメリカに住んでないからそう見えるかもしれないけど……」「西海岸の大都市に住んでいたらそう思うかも知れないけど……」「私のともだちのアメリカ人は……」などとにかく反証を挙げることでこの一般化を論破しようという試みが見られ、反証はそもそもひとつ挙げれば完成ですので当然ですがほとんどの場合は「論破」が成立、「主語のデカさ」を批判した側のひとがベルトを掲げてリングを一周するところを見ることができます。
しかしこうしてどこかの国民をひとくくりにして、つまりデカい主語として「〇〇人」という言葉を用いて語ることへの強い反発が見られる一方で、「中国人は」「韓国人は」「ロシア人は」「イギリス人は」など、結局その国の国民に見られる精神性をもって何かを説明しようという論法が時を移せば先ほどのチャンピオンの口からすらも漏れるという興味深い現象がしばしば観測されます。
多少なりとも上品なひとですと、これを指摘されたときには「いや、私の知っている中国人はみな温かいひとたち。決して中国人が悪いわけではない。だがあの中国共産党政府がよくない」とか、「ロシアのひとびとは本当に親切で懐の広いひとたち、悪いのはプーチン」など、「〇〇人は」という主語を「〇〇政府は」に訂正して「私は乱暴な一般化などしていない」と卑怯な逃げを打つこともあります。しかし「すべてのロシア人が“いいひと”であるのに、プーチンひとりだけが悪い奴であるなどということが果たしてありうるだろうか」と、ソクラテスなら問うでしょう。
翻って私たち自身の姿を見たときには、「基本的に親切」だが「はっきり物を言わず」、「結論を出すのが遅く」て「周囲に追従することが多く」、「几帳面で器用」でも「物事を大づかみにして方針を決めていくことが苦手」だという政府に対する不名誉なレッテル付けは、果たして私たちおのおののなかに割合はっきりとその相似形を見出しうるのではないかというのが私の考えです。
しかしこれは別段おかしなことではなく、社会というのはどんな社会でもそのカルチャーに則った様式で物事が進められるからこそ社会なのだし、逆に言えばその社会で多くのひとがたどる道筋がカルチャーになっているわけですから、これがある程度相似をなしていなければ、あなたはこの社会で無事に生きていくことがほとんどできないはずです。
実際に、なんとか大人になるまで生きてはきたが自由を手に入れたとたんに「自分に合ったカルチャー」を求めて海外へ飛び立ち、もう二度と帰るつもりのないひとというのも今の時代、みなさんも身近にひとりやふたりはいらっしゃるのではないでしょうか。それはとりもなおさず、「日本には社会が存在し」、「大多数のひとは全体に合致した社会性を内部化することで生きている」ことを逆説的に証してるにほかなりません。
つまり、私たちはやはり国民として、あるいはそう言って悪ければひとつの閉じた社会として、ひとつの大きな「精神」を持っているのだということを私はここで言わんとしています。これが何をもって国際社会で表出していくかといえば、たとえば普通選挙にもとづく民主政を採用しておれば何だかんだ言ってもこうした精神が政府のありように反映されるのは当然だということになりましょうし、それがたとい王政や独裁制であったとしてもこれらが民衆の手によって転覆された例というのも枚挙に暇がないわけでして、充分なリスペクトや納得といったものを国民から引き出し国体の安定性を担保するためにリーダーはやはりその社会の精神に少なからず服す必要があるはずだからです。
また、こうした国民性や国家の精神という点ではさらに興味深い現象が最近では観察されております。日本でも少なからぬひとびとがロシアのプーチン大統領による「ウクライナという国家は存在しない」という認識に対して憎悪をもって反発していますが、同時に「皮肉にもプーチンが起こした今回の戦争とゼレンスキー大統領の呼びかけにより、ウクライナにもついに国民の神話が生まれつつある」というクールな言説に喝采を送ってもおり、後段は結局「ウクライナにはやはりいままで“国民”が存在しなかった」ことを意味するわけですので、「いや、おまえはどっちやねん」という突っ込みは本来関西でなくとも不可避であろうと思われます。
しかし私とてこうした分裂症的な反応を示すひとびとの「優しい気持ち」は理解をしておるつもりでいます。
実際には国家にも社会にもでっかいでっかい精神があり、国民はみな多かれ少なかれ生まれたときから(生まれはちがうというひともいますが)それを嗅がされハイになったりチルしたりしながら国民をやっているのだということぐらい、本当はみんな分かっているのでしょう。だからこそ他の国と比べられたり、何かの差異をもって優劣を説かれたりするとヒステリーを起こして間違った論法で潰しにかかったりしてしまうのですけれども、ところがだからこそ問題の「デカい主語」というのは残念ながら有効に存在すると考えるのがもっとも自然なのであります。
それでもなお我々は個人としてバキバキに覚醒しており、その意志は国家や社会とは独立して存在するし、それをもって私たちひとりひとりが自由に、主体的に物事を決定してこの瞬間々々を生きているのだという極限まで細分化された多様性としての個人主義、自由主義という仮想現実を掲げ、VRゴーグルをしたまま「現実」を叫んで矛盾を来すという、こうしたヤバすぎる愚かさを私たちは理想主義と呼び、その姿勢に事実上最大級の賛辞と敬意を送ってきたのではないのでしょうか。私たちが愛し、敬い、おおいに讃えるその姿は本質的には“愚かさ”なのであって、“明晰さ”ではない、ここをはき違えるべきではありません。しかし愚かさが祭壇のもっとも高いところに鎮座ましますことこそが、ひとをその他の動物と峻別し、その存在をひとたらしめているのではないかと私はやはり思うのであります。
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