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「閃光のハサウェイ」と、ニセモノたちの宇宙世紀|weekly vol.0119

今週は、うでパスタが書く。

一〇年ぶりぐらいにあたらしいテレビを買った。
テレビというのはいつの時代も家電のなかでは大物だし、壊れでもしない限り買い換える理由に乏しいので、一〇年というのは特に長くもないのだろう。
うちが今回買い換えることにした理由は家を替わるからで、それはまだ半年以上も先のことなのだが、いままで使っていたものはHDMIの端子がふたつしかなく、子がYouTubeだマインクラフトだといろいろやりたがるたびにテレビのうしろへ手を伸ばしてケーブルを抜き差ししなければならない(というか、そのためにどこで何をしていてもわざわざ呼ばれなければならない)のに倦んで、一足先に買い換えることにしたのだ。

どこかで書いたはずだが、二〇代のはじめに働き始めてからしばらくのあいだ、僕のアパートにはテレビがなかった。家でテレビを見る時間などまるでなかったからだ。学生時代に14型のテレビデオであれほど観ていた映画に対する渇望も綺麗さっぱりなくなっていた。やがて借金を返し終わり、それでもその年齢にしては巨額の賞与が振り込まれるようになると僕は、自分にはその金を満足に使うような時間も欲しいものもないことに焦りをおぼえて、仕事の合間にビックカメラで目についたプラズマテレビとステレオのスピーカーを買って一五分ぐらいでまた職場へもどった。カネをもったら使い途もないような、そんなつまらない人間になりつつあることに僕は心底怯えていたのだ。
しかし結局はその家に届いた当時出始めのプラズマテレビをつけるような時間もやはりなく、暗いままの部屋で着替えるときに視界にはいる大きなテレビを僕はだんだん疎ましく思うようになって、ある晩、階下にあったバーと話をつけて「上にあるプラズマテレビを寄贈したら、俺は生涯にわたり一杯目がタダ」という約束で譲ってしまう。凡庸さの象徴を売り渡すにしては破格の取引だった。

あのときのテレビはおそらく五〇万円ほどしたのだと思う。そのあとリーマンショックの頃だったか、故あってもう少し小ぶりのテレビを買おうとしたときにはもう薄型液晶が主流になっていたが、それにしてもテレビの価格が暴落していて驚いたのを覚えている。おそらくあれは中国製の家電製品が世界にあふれ出していた頃で、シャープなんかはまさにそのテレビなんかのせいで転がされることになったのだ。今回また久しぶりに家電量販店のテレビコーナーへ足を運ぶと、いろいろと理由を付けながらもテレビの価格はやや持ち直していた。しかしそれにしても五〇万円というのは高かったなという印象で、なんだあの頃にはまだそんなテレビを(僕のように)買うひとが結構いたのかと不可解な気がする。

テレビとのあいだにはこのように気詰まりな関係を結ぶ僕のところへふたたび割と大きめのテレビがやってきて、やはり「何かしなければならない」という焦りからネットフリックスで「閃光のハサウェイ」を繰り返し観ている。昨年公開された「機動戦士ガンダム」シリーズの劇場アニメーション映画だ。だが原作はもう三〇年ぐらいまえに書かれていて、ファンの多くはその筋立てをすでに知っている。僕はこの作品を今日にいたるまで読んでいないが、その理由は後に述べる。

「機動戦士ガンダム」は一九七九年に初めてテレビ放映されて以来、現在にいたるまで多数のファンを生み出しつつさまざまなかたちで愛されているアニメシリーズだ。なかでも正史とされる「宇宙世紀もの」は、いまでは「ファースト」と呼ばれる初代の「機動戦士ガンダム」からそのあとの物語を紡ぎ、おなじくテレビシリーズだった「機動戦士Zガンダム」(一九八五年)、「機動戦士ガンダムZZ」(一九八六年)、劇場アニメの「機動戦士ガンダム 逆襲のシャア」(一九八八年)、劇場公開と配信が同時に行われた七話シリーズの「機動戦士ガンダムUC」(二〇一〇年)へとつづく。「閃光のハサウェイ」は、いわば傍流にあたるサイドストーリーとして発表された小説であったが、今回映画化されるにあたって「逆襲のシャア」のその後にまっすぐ繋がる位置付けに修正されたため、一般にはこの正史に連なる作品と受け止められているようだ。

ハサウェイとは、初代「機動戦士ガンダム」でホワイトベースの艦長を務めたブライト・ノアと、その女房役で操舵手のミライ・ヤシマとのあいだに産まれた男の子の名で、シリーズでの初登場は「Zガンダム」第十七話の「ホンコン・シティ」になる。スピンアウト作品として発表された小説などが登場人物にフォーカスしているケースは他にもあったようだが、(一応)正史に位置付けられた作品が「機動戦士ガンダム」と付いてはいても「閃光のハサウェイ」というように人物名をタイトルで打ち出すのは「逆襲のシャア」以外では初めてだ。

「ZZ」の放映終了後も「ガンダム」の周辺に次々とスピンアウト作品が生み出されていて、いまやハサウェイまでをも主人公にした小説がコアなガンダムファンのあいだでは持て囃されていることは、僕も小学生の頃には知っていた。しかし「Zガンダム」の終盤から「ZZ」のはじめにかけて、シリアスさの皮をかぶった茶番が「ただの子ども向けアニメ」に変わっていく一連のプロセスを「堕落だ」と受け止めていた小学生の僕は、「いちばん初めのガンダムだけがガンダムだ」とその他の「派生作品」に背を向けてテレビを切る。のちに制作者たちによって「正史」と定義されることになる作品群をも僕は「偽典である」と見做したのだ。このあと僕とガンダムとのあいだの断絶は長きにわたり、和解を二〇一〇年に始まる「機動戦士ガンダムUC」の登場まで待たなければならなくなる。

ガンダムシリーズというのは、テレビアニメが一年つづいて五〇話で完結するのがあたりまえという時代にはじまり、ファーストこそ打ち切りになったが「Z」も「ZZ」もむしろこの尺の長さに脚本自体が疲弊して壊れてしまったのだというのが僕の受け止め方だ(「ZZ」に関してはもう少し辛辣な意見も持ってはいる)。
しかしそれから二〇年時代を下った「UC」は、短いシリーズだからこその集中力で「こんな時代にも、“人の心”にできること」という青臭いテーマを貫いた。利己(愛)と利他(人類の平和)の止揚を「自分の心」に求めるのは、卑小なようで勇敢なことであるし、個人主義の横行する社会がともすれば大義の裏付けに四苦八苦しながら崩壊していく現代からしっかりテーマをすくい取ったことに「これこそは大人のガンダムだ」と僕は深く感動したのだ。宇宙にまで膨れあがった人類の未来を人の心が救うなどということを信じるのはいかにも荒唐無稽な話であろうが、いまや一大産業となった「ガンダム」の最先端でそんな話ができるのならば、制作者にはその夢物語を語る資格がある。

「閃光のハサウェイ」は二本に分けて公開されるうちの一本しかまだ公開されていないが、これもまた「UC」というよりは「逆襲のシャア」を継ぐ作品ながら(それは当然で、「ハサウェイ」の原作が書かれたときには「UC」はまだ構想もされていない段階だ)、「UC」以前の作品とは一線を画す大人のガンダムとしてしっかり仕上がっている。そして今回「ハサウェイ」が観客に、それも長くシリーズを追いかけてきたファンに問いかけるのは、ガンダムがその歴史の初めから孕んでいた「偽り」をどう解決するかという問題だ。

「機動戦士ガンダム」は、地球からの独立を訴えるスペースノイド(スペースコロニーに居住するひとびと)の支持を集めるジオン公国と地球連邦政府との熾烈な戦いに幕を開ける。以降、地球というゆりかごに安んじてきた「いままでの人類」と宇宙で暮らしてゆかざるをえない「これからの人類」との対立は宇宙世紀シリーズに一貫したテーマ、または背景となる。しかし「ジオン公国」は、これを打ち立てたジオン・ズム・ダイクンを暗殺してその座を奪った僭主デギン・ザビとその一族によって支配されており、そのときからすでに「ニセモノ」であった。その手先のエース・パイロットであるシャア・アズナブルは実際には亡きダイクンの子・キャスバルであり、ザビ家への復讐の誓いを仮面の下に隠しているが、「機動戦士ガンダム THE ORIGIN」によればシャア・アズナブルという名も事故死した少年から奪った名前であり、彼自身まぎれもなく「ニセモノ」なのである。

そして何よりも、父の仇を討ちふたたびジオンの理想を掲げるというシャアはその誓いによってみずからをも欺いており、実際には本来自分のものになるはずだった王国をその手に取り戻したいという欲望がやがて彼を苛むことになる(「機動戦士Zガンダム」)。つまりシャア・アズナブルという男は二重の意味で「ニセモノ」なのだ。Zガンダムの最後にシャアが姿を消すのは「ZZ」の構想が固まっていたからだとされるが、当時の解説には「自分を偽ることに疲れたシャアもまた姿を消す」と書かれている。

その後「逆襲のシャア」に姿を現すシャアはネオジオンの総帥に収まっており、めでたくみずからの王国を取り戻したかのように見えるが、その実は民衆の期待を背に受け、本人には本当にその意図があるのかどうかも分からない「地球人」の大虐殺を試みている。「逆襲のシャア」に見られるもっとも興味深い現象は、シャアに滲む深い疲労感だ。「Zガンダム」の第三七話「ダカールの日」からシャアはふたたびその名を名乗り、スペースノイドの意を受ける器になることを承諾するのだが、このときからすでに自分の欲望がまったく政治的ではないことを本人は痛感している。彼の欲望は、最初から一貫して非常にパーソナルなものだったのだが、それにもかかわらず、その後のシャアは「逆襲のシャア」にいたるまで、その歩みをとどめることができなかった。これがシャアの破滅した理由のすべてである。

「UC」にはシャアを完璧に模倣するフル・フロンタルという怪人物が登場するが、フル・フロンタルは「私はみずからを器のようなものと規定している」と語る。つまりひとびとがシャアを必要とするならシャアは現れなければならないし、そのためなら自分がシャアの役割を演じることには歴史的な正統性がいずれ伴ってくるということだ。長くガンダムシリーズを観てきたファンはここで「フル・フロンタルはシャア本人ではありえない」と確信することができるが、それはシャアにあったジレンマがフル・フロンタルにはないからだ。
シャアは結局のところ欲望のひとであった。自分が奪われた母を、父を、自分の名が付いた王国を取り戻したいという気持ちだけが本当であり、敵も、味方も、作戦も、理想も、演説も、すべてはそのどうしようもなく強い欲望を満たすための道具にすぎなかった。しかしフル・フロンタルにはそれがない。ネオジオンの総帥だったシャアにひとびとが託した祈りを体現するだけの存在、シャアの片方だけが口をきくことで、まさにシャア・アズナブルというひとの「ニセモノ性」を浮き彫りにしているのがフル・フロンタルというキャラクターだ。だがこれによってあらためて振り返ることになるのは、つまるところ「ガンダム」におけるシャアとザビ家との暗闘は所詮「ニセモノ」と「ニセモノ」との相克だったのだということに他ならない。

ではシャアの敵方はどうだったのであろうか?
「ガンダム」を戦うホワイトベースの乗組員たちはみな敵の急襲で死傷した正規兵にかわって軍服を着る少年少女たちであった。彼らは実際、ときに「軍艦を奪った」と指弾され、あるいは突然階位を与えられて戸惑うことになりながら、「ニセモノの軍隊」であるホワイトベースで大人になっていく。これは「Zガンダム」でも変わることはなく、ゲリラとはいえホワイトベースよりはよほど洗練された戦闘集団であるはずのエゥーゴにおいて艦内の独房は「自習室」と呼称されて、その統率はときに「荒れる学校」のようだ。このように、決して「プロ」が主導権を握ることのないニセモノたちの戦争を見せられるのが「ガンダム」のひとつの特徴なのである。

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