フィルモ・ヒストリア|2023-04-04
今回は、うでパスタが書きます。
というか大変ご無沙汰しておりますが、お変わりありませんか?
「お変わりありませんか?」とお尋ねするのに四月ほど向いてない月もないのですが、もしかしたら読者にもわずかにいらっしゃるのやもしれぬ生徒・学生や新社会人の皆さまにはまたあらたな暮らしのなかでのご多幸をお祈り申しあげます。
「映画を観る」というのを大切にしている大人が結構な割合で存在すると思うのですが、あなたはどうでしょうか。
私が割と足繁く劇場へ映画を観んとして脚を運ぶようになったのは九〇年代の途中からで、いまからすれば「平成初期」にあたる時代でした。
なんとなくそんな気がしたので調べてみると、これはやはり一九六〇年代にはじまった映画上映館(スクリーン)数の減少がついにピーク時の四分の一にまで至った、まさに日本の「映画冬の時代」のことだったようです。
そしておそらくこの時期は、これも体感ですが邦画の冬の時代でもあって、ようやくこのあたりからアニメ映画では宮崎駿監督作品の興行成績が世界でも安定的に伸びるようになり(一九九二年「紅の豚」、一九九七年「もののけ姫」)、北野武監督作品もまた「どうやら世界に通用するものらしい」ということが知られるようになっていきました(一九九六年「キッズ・リターン」、一九九九年「HANA-BI」)。上のデータによれば、それから四半世紀を経た現在、国内のスクリーン数はボトムとなった一九九三年の実に三倍を数えるということになります。
その間、たとえば「ハリウッド映画」と呼ばれるような米西海岸の映画産業が斜陽にあったかといえばそんなわけではありません。要するに学校が休みになるたびに公開される「超大作」以外の作品にもそこそこお客さんが入って興行収入の裾野がひろがる形で日本国内の映画産業は息を吹き返したということなのでしょう。
ではこの時期(一九九〇年代半ば)に日本でスクリーン数や興行収入が底を打ち、ゆっくりと復活をはじめたのにはどんな理由があったのでしょうか。
まずひとつにはシネコンの登場と広まりがあげられるであろうと思います。
日本では、八〇年代以降に米国とのあいだで激化した貿易摩擦交渉や規制緩和圧力の結果として一九九八年に「大規模小売店舗立地法」が制定されました。現在ではまとまった遊休地のない都心部をのぞき津々浦々に存在するAEONのようなショッピングモールの開発はこの頃から加速し、こうした大規模商業施設には週末の家族連れを集客する目的で複数のスクリーンを備えたシネマ・コンプレックスが入居するようになります。
上の日本映画製作者連盟のスクリーン数統計でも二〇〇〇年からシネコン分が内訳として記載されるようになっていますが、この時点ですでにシネコンは一〇〇〇スクリーンを上回っており、現在では全国のスクリーン数の八九パーセントがシネコンのものであるとされています。
こうしたシネコンを擁する商業施設の多くは車でなければ不便な郊外に位置するとはいえ駐車場は充分に確保されているのが通例ですし、またいまでは信じられないことですがかつては人気作には並んで開場を待ち、扉が開くと同時に劇場内へなだれ込んで座席を押さえなければならなかったのに比べ、入れ替え制・座席指定から果てはインターネットによる事前予約・購入と観客の利便性を飛躍的に向上させたことが「映画でも観る」という手軽なレジャーのハードルをグッと引き下げたのであろうことは想像に難くありません。
また、こう言ってはなんですが、当時は前の上映が終わるのを場合によってはじっと何十分も待たなければならなかった劇場のロビーや通路は改修するカネもないため古びたままに放置されており、息が詰まるような寿司詰めの行列にはまるでガス室へと送られるのを待つような精神的苦痛が伴いました(実際に、私の日記にそういう表現がある)。混雑状況が不明ではいったい上映のどれぐらい前に行けばよいのかも分かりませんし、子連れ・家族連れが「ちょっと映画でも」とはおいそれと言いだしにくい状況であったことが、長い時間をかけて映画の重石となっていったのだろうと当時を知る私などには容易に想像がつくわけであります。
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