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比べる不幸知らない幸福 | weekly vol.089

「誰もが疑うことはなかった。後の世にはそう伝えられるのかもしれないけれど、実際には多くの人がいつまで続くのかと疑心暗鬼でいたし、最後に散りゆく時にも、やはりこうなるのか、という感慨があったのだろうと思う。世界中の誰も疑いを持たないなどということはないし、もちろん、過剰に表現して伝えていくのが歴史であり教訓だと言われてしまえばそうなのかもしれないけれど、少なくとも、21世紀以降のリベラルさを少しでも感じ取っていたのであれば、少数派の意見も参考程度に入れておくことの重要さは身にしみて分かっているはずだろう。歴史は繰り返す、というのはその通りで、人間の性質はここ数万年そう大きくは変わってはいないし、だとすると記録に残っている歴史なんていうのはその内の数千年に過ぎないわけで、その中で同じようなことを繰り返して学んでいる過程だと考えるのは妥当な気がするだろう?人間はちっとも完成なんてされていないし、まだまだ学習の過程にあるんだという自覚が大事だという話は、さも自分はそれを上から見ているような超越的な立場から語られがちだけれども、そういう上から見ているとか、下から見上げているとかという話を抜きにして、反省するみたいな謙虚さが大事だということなんだろう。人間は何に対して謙虚であるべきなんだろうか。己の小ささか、その小さな肉体に閉じ込められている大きな傲慢さに対してか。」

彼女は音読をやめると窓の外に目をやりつつ、喉を潤した。今飲むことができる水は、3ヶ月かけて濾過した精製水だ。度重なる環境汚染により水源はことごとく破壊され、水状のものはあるがそれを飲料用にするためには莫大な手間がかかる。コストはこうして積み重なり、全てのものを少しずつ圧迫していく。

熱狂、混乱、狂騒、バブルは繰り返し訪れ、その度に多くの人を豊かにしたり、破滅させたり、あるいは新しい産業を作り出したり、破壊したりしてきた。歴史を振り返ると、今回だけは違う、という言葉が出てきた辺りが転換点になるようだが、逆に、多くの人が今回も同様だと考えている間はブクブクと大きくなっていくようにも見える。それはつまるところ、それがなんだか分かっていない間は育つ、それこそモンスターのようなものだ。多様性を重んじていくアニメーションの世界ではモンスターにも権利があり、また同様に義務や倫理や徳がある。世界には多様性があり、多様な世界のアクターの数だけ価値観があり、善悪がある。

多様なアクターを一体化させたのは他でもない根源的な感情だった。古来より言われていたような、怒り、強欲といった強い感情は人々を結びつけ、敵味方の区別に優先した。それはもっと原始的とされる虫や社会性動物のような行動を人々に取らせた。感情の流れの前に、多様な価値観は脆くも蔑ろにされ、儚くも消えていった。

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キノコです。明らかにバブル的な何かだろうと多くの人が思っているように見えるのですが、エコーチェンバー現象というか、やはり相場関連の人で生き残っている人というのは猜疑心が強いのか、懐疑的になりやすいのかもしれないとも思えます。普段相場などには関心を持たない人にとっては、高値を追うとか、値頃感とかはないのかもしれませんし、追うべきなのはトレンドとモメンタムだけで、フェアバリューなどというものは幻想なのかもしれません。祭りがお開きになる前に帰ってしまうのはもったいない、みたいな気持ちでまだ見ていますがどうなるのでしょうか。ニュートンやケインズのようにキノコも大失敗してしまうのでしょうか。

先日読んだ澤上投信の会長の、なんで上がってるのか分からないんだからある日なんでか分からない理由で下がるんだろう、という話を清々しいなと思ってしまいましたが、それを分析して再現性を高めるもしくは利するように行動するのが投資の”プロ”なのでは、とも思いました。HFも儲かったり損したり、ボラティリティーが上がると浮き沈みが激しくなりますが、あのルネサンステクノロジーも損しているのであればやむなしという感じです。ロビンフッダーに資金を半減させられたHFもあったという話ですし何が起こるか分かりません。自分のポジションを持っていると常に、逆に動くのでは、という気持ちになってしまうのですが、本当に人間は心理的に投機に向いていないなと感じます。恐怖や強欲というものがいかに認知を歪めるか、というのを体感するためには非常に良い教材だとは思いますが。

さて、世相ですが、ワクチンの輸送に対する政府の緩い認識や、オリンピックに関係する人々の認識を伺わせる発言の是非をめぐるあれこれなど、これぞ価値観の対立、という感じがいたします。経団連も参加して大盛り上がりな様ですが、飛び火が怖いので触れない方が良さそうだと判断しております。SNSではしばしば、主語が大きい、という表現がされますが、女性はとか、男性はとか、皆言っているという言い方をするとそれに当てはまらない人から指摘が来るよという処世術的なものでして、やはり批判などをするのであれば、○○○が話が長いので嫌だ、などと特定して行うべきなのでしょう。であれば、検証の余地があるわけです。世界は今科学的な判断をよしとしており、話が長いとは、という定義に基づき、○○○は本当に話が長いのか、平均的な話し方に比べてどのくらいの偏差に位置しているのか、ということをこそ議論すべきだろう、という方向に向かっております。エビデンスを出せ、というのがまさにこれなわけで、相対評価としての妥当性を吟味できるように話を進めねばならないわけです。

先に述べた、フェアバリューに対して割高であるか否かという議論はこの点でフェアな気がしますが、フェアだから報われるかというとそうでもないというのが非常に示唆的だと思う次第です。

本日は幸あるいは不幸というのをどう捉えるか、という話です。

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