名、あらための記。|weekly
今週は、うでパスタが書く。
いま、人間の子どもをひとり育てている。
最近になってはようやくしっかりしてきたが、まだようよう記憶も定まらない、大きくなったときには思い出すこともできない日々を生きている人間と暮らすというのは不思議なものだった。
誰も人生は、初回を見逃したドラマシリーズだと思う。
見慣れた街、見慣れたひと、その因果・相関関係、いつの間にか始まっていた物語の続きをこともなげに、あるいは文字どおりすべてを賭して生きているが、我々は彼らが登場した第一話を見ていないし、その街の名を知った日のことを決して思い出すことがない。
あるいは全巻をコンプリートしていまも買い続けているのに、一巻だけ失くしたままのコミックス。
中華屋でボロボロのそれを見付けて少し手に取ってみることがあっても、いまとはまるで違うひとたちが、まるで信じられないほどシンプルな世界でのんきな物語を始めようとしているのを見ると、今さら手もとへ置くこともないと、餃子が届くころにはまた本棚へ戻してしまう。
「終わりよければすべてよし」という手垢にまみれた言葉はつまり、始まりに責任をとることのできる人間などいないということを言っているのかもしれない。
以前からご案内しておったとおりに、当ウィークリー・マガジンはこの三月で一周年を迎えた。言うまでもなく、これは通過点にすぎない。はっきり言って一周年を迎えたこと自体にはなんの意味もない。
しかし一周年をもって当マガジンは、その名を「九段下パルチザン」(あるいは「ビブリオテーク・ド・キノコ・ウィークリー・マガジン 九段下パルチザン」)と改めることになった。これはすべて、“Bibliothèque de KINOKO” をただしく読めない読者のためだ。
「パルチザン」(partisan)は、占領下のいわゆるレジスタンスのような勢力を指す言葉でもあるが、「党派性の強い」(一派)という意味合いをもち、要するに我々はここに「意固地である」「偏屈である」ということをひとつの旗印にすることとなった。
そしてまた言うまでもなく、我々はこの世界がある種の占領下にあると認識しているが、戦闘的である必要はいまのところないと考えるものである。
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