dancing at the end of the world |weekly
「では来世で。
ちょうどそんな別れ際の挨拶が流行ったのは30年も前のことだっただろうか。野外のパーティーでたまたま会う人たちは、次にいつ会えるか分からないわけで、とはいえ音楽という繋がりを通してまたどこかで会えるかもしれないという希望と、音楽の持つ普遍性がもたらす陶酔感と一体感から輪廻転生に通じるような運命を感じたのか、自然と来世でまた会おうという挨拶が広まっていった。来世で会うかどうかという以前に、僕は彼女や彼らの名前も知らなければ、音楽を聞いて踊っている時以外の顔を知らない。毎週のように連絡が来て、会場に行けばそこで会う、という関係以上のものではないし、またそれ以外をお互いに望んでもいない。緩く繋がっていると言えば聞こえはいいかもしれないが、一晩のパーティーのために生きている刹那的な人生において、他の何も知りたくないということなのかもしれない。同じ音楽を好む人間が集まり、夕暮れから夜明けまで踊り明かす。夜の冷気が汗ばんだ身体を心地よく冷ましてくれる。天を仰げば星空が広がり細い三日月が流れていく雲の合間に見え隠れする。山の稜線に沈んでいく夕日や、夜の海、朝靄に包まれる林や、朝陽の差し込む渓谷。様々なところでパーティーは繰り広げられた。自然の中で音に包まれると、そこは日常を遠く離れた異空間になり、未来永劫続くかに思われる至福の時間となる。」
音楽の記録はたくさんあるが、人々が集い音楽をともに聞くというような機会はなくなってしまったので、ここで描かれているような野外のRaveのようなものはアーカイブの中でしか見られないものになってしまった。人が集まる、という場合に想定されるものが全く異なっている。人間が死ななくなってから久しいが、減らない代わりに増えもしなくなってしまったので、新陳代謝と呼べるような変化も停滞しつつある。
彼女はいつものように音読をやめると、そんな話をしつつ、野外Raveについてへの憧憬と最近お気に入りの音楽について、少しはしゃぎながら話をした。音楽というものが演奏から再生へと変わったことにより共有のされ方が変わった。そして再生のためのメディアが変わることで、再生する場所の自由度が上がっていった。文字通り、いつでもどこででも音楽を聞くことができるようになったことで、人々は世界中の絶景と呼ばれるところ、秘境を求め、そこで踊った。今となっては廃墟群となってしまった湾岸エリアでも大規模なイベントがしばしば行われていたことが記録には残っており、タワーマンションから撮影したと思われる画像、動画もたくさん残っている。
人生において音楽というものが不可欠かどうかというのはその人の暮らし方にもよるだろうが、何かしらの記憶と結びついた音楽というものがゼロだという人は少ないだろう。感覚による刺激によって記憶を呼び起こされる不思議さというものは、自分の中にそのような記憶があったということへの驚きとともに、その感覚をまざまざと思い起こすことができるその機能にも驚いてしまう。
繰り返すリズム、遠く響くメロディー、重なり合うハーモニー。全てがそこにあり、二度とは再現されない何か。
--
キノコです。
まあこのご時世なので他に考えるべきこともなく、明日は我が身、という気持ちで向き合わざるを得ない問題ではありますが、こういう時に持ち場があること、なすべきことがあるというのは大事なことだなと思います。インターネットによって集合知を得ると同時に我々は底の知れない無知さや悪意、憎悪といったものをも可視化してしまっており、それが今後どのように機能していくのかを身を以て検証し続けなければならないわけです。
相場はどうかと言えば非常時であるという大義のもとにこれまで実行できなかった実験的な取り組みへとその歩みを進めようとしているように見えます。平時にはリスクの分散や転嫁といった浅ましい爆弾ゲームが行われていたわけですが、地球以外に逃げ場がない事に気づいた瞬間に全員が誰にも転嫁できないリスクに気付かされてしまったわけです。エレガントでソフィスティケイテッドな金融理論というのは実に限られた条件下でしか機能しないものだということが分かったのは大きな成果だと思います。まあ言い尽くされていることではありますが、いかに薄っぺらな安定の上にいたのか、ということです。
ただ、こうした状況に際して刹那的に生きるようにシフトするのか、あるいはそれでも何かを築こうとするのか、というのは大きな分岐点になるのだろうなと思います。それはしばしば中長期的な計画を立てる際に自問自答する、いったいいくつまで生きるつもりなんだ、という問題とも関係します。つい数ヶ月前まで、人類はやがて死を超越し全ての病は根絶されるだろう、とテクノロジーオプティミストが語っていたことを忘れてはいけません。その努力は無駄にはならないでしょうし、長い目で見ればそうなる可能性もあるわけです。しかし、何事にも優先順位というものがあり、それは水物で、やはり目の前に差し迫った命に関わる問題というものを放置することはできないわけです。35年計画でムーンショットを放つつもりだ、というような計画にはいくつもの前提が織り込まれていたわけです。火星に人類の拠点を作ることも、月面に基地を作ることも、宇宙を旅することも、夢のクリーンエナジーを作ることも、生きていればこそできることだ、ということに否が応でも目を向けさせられてしまっているわけです。余命宣告を受けた人には世界が異なって見える、と言いますが、まさに世界中でそのような世界観の転換が起きているのだろうと思います。計画通りに人生が進むことなんてない、というどこか醒めた態度ですら、生きていられることを前提としたぬるい考えだったというのはなかなかに衝撃的です。グローバルな経済、個人の時代、リキッド化する世界をサバイブする、などと豪語していたグローバルエリート人材はどうなるのでしょうか。まずは生き抜いてから言え、という根源的な話のそれこそ暴力性というものに我々はなすすべもないわけです。まずはこのnoteが日々更新され、翌週も更新され、永久に続くことを願いましょう。
というわけで、本日の話題はなぜ不況や恐慌のあとにイノベーションが起こるように見えるのか、という話です。
--
ここから先は
¥ 300
九段下・Biblioteque de KINOKOはみなさんのご支援で成り立っているわけではなく、私たちの血のにじむような労働によってその費用がまかなわれています。サポートをよろしくお願いいたします。