見出し画像

「敵」とは結局なんだったのか

あくまでも、「こういう見方ができるのかもしれない」という程度で見ていただきたい。
また、原作小説を見れば、以下の内容が全く見当違いかもしれない。
ネタバレを含みますので、ご注意を。
なお、本記事の筆者は文芸の素人であることもご承知おきを。


老後の規則正しい生活、その崩壊


主人公・渡辺は規則正しい生活を送る。
毎朝目覚めて顔を洗い、自炊をし、フランス文学の原稿を書く。
たまに来客がある程度で、基本的には一人での生活を貫く—
その渡辺の姿は俗世から離れた修行僧のようだ。

来たる「X day 」(私財をちょうど使い切ったであろうタイミングで訪れる、死の期日)に向け、淡々と老後を生きる姿は「終活」に勤しむ高齢者たちにとっての理想形であるとも言える。

キムチで腹を壊すことはあったものの、基本的には健康的であり、死を受け入れつつも、原稿執筆や趣味のワインを嗜む姿は、誰もが羨むはずだ。

と、いう錯覚を我々は前半部で植え付けられるわけだが。

物語は後半部に急旋回を見せる。
「敵」が訪れるのだ。

その「敵」は、渡辺が言っていたように、ある日突然、いきなり襲ってくる。
しかし、渡辺にはその正体がわからない。
その気味が悪い「敵」が徐々に渡辺の世界を侵食してくる。
規則正しい渡辺の生活は一気に変わり、悪夢にうなされる日々が到来し、ラストシーンでは完全に敵に飲み込まれる。

明確な輪郭のない、多元的な「敵」


本作のわかりにくさは、夢と現実が交わるシュールレアリスムSurrealism的手法が用いられていることもあろう。
シュールレアリスムとは読み方からもわかるように、フランス由来の芸術運動であり、20世紀初頭に隆盛を見せてからも、今なお様々な作品で用いられる。
フランス文学者というのは、こうした展開の伏線になっていたのだろう。
このシュールレアリスム的な夢と現実を行き来する展開に慣れていない鑑賞者にとってわかりにくかったに違いない。(もっとも、私自身、「慣れていない鑑賞者」であって、理解が追いつかず大変だった。)

上記のような理由もあろうが、この映画のわかりにくさはやはり、「敵」が明示されていないことに由来するのだろう。

いきなり襲ってくるもの、北方から忍び寄ってくるもの、という情報しかない。
その正体不明な「敵」が渡辺を襲う時、鑑賞者は不思議な感覚に襲われ、驚かされるのである。

ただ、この「わかりにくさ」というのが、「敵」を「敵」たらしめるものであるということに注意が必要だ。
規則正しく、何一つ不便なく、理想の老後を送っているように見える人物に襲いかかる、漠然とした「敵」なのである。

渡辺の中にある漠然とした不安や、やるせない感情をどうしようもなくなったとき、忍足で近づいてきた「敵」が本格的に襲ってくる。
つまり、「敵」として襲ってくる埃まみれの人間たちや銃撃は、渡辺の心的状況に食い込んでくる得体の知れないもののメタファーなのだ。

渡辺を襲う漠然とした不安、とはいったものの、その不安はある程度カテゴライズして述べることができるだろう。
それは大きく言って3つ。
漫然とした暮らしへの恐怖。性への衝動。そして、孤独。
これらが多元的に重なることで、「敵」は強力なものとして渡辺にのしかかる。
以下順に見ていこう。

漫然とした暮らしへの恐怖

本稿の最初でも確認した通り、修行僧のようなきちんとした生活は、老後の一種の正解であるといえる。
そう巷では信じられている。

しかし、この暮らしが理想形では決してなく、渡辺は根源的な恐怖を感じていたのではないだろうか。
もちろん、渡辺自身は生活に満足しているようだったし、日々をただ生きることにさして不満もないように思われる。
とはいえ、映画の前半部分でそのような暮らしぶりを何カットも見せつけられた私はむしろ違和感を募らせるようになってきた。
いくらなんでも刺激がなさすぎる。
日々、ほどほどに豪華な料理を自炊し、連載の原稿を書き、時々来客を迎えるだけの生活に、本当に満足しているのか?という疑念が募らざるを得ない。

実際、その平坦な暮らしでは満足していなかったのだろう。
そのことが端的に現れているのが、次節で見る性への向き合い方だ。

性への衝動

河合優実演じる立教の学生に会いにバーに足繁く通っていた渡辺。
バタイユ(?たしかそう)の感想を聞かれても、「すごい」しか答えられないような仏文学生は、渡辺がどんなに寛容であろうと、物足りないはずだ。
それでも何度も会いに行き、しまいには300万円を貸し付けるほどの原動力は、どこから湧いてくるのか?
無論、若い「女学生」に会いたいという衝動だろう。
そして、希望通り気に入られていることに満足する。
若い女性からの眼差しを気にする様子は、風呂場で耳の裏の匂いを確認しているシーンからも窺える。

そして性への衝動がわかりやすく現れていたのは、教え子と自宅で接する機会だ。
この女性はおそらく、渡辺の理想が実体化したものであって、実在しない人間であると考えることが妥当だろう。
実在したとしても、本当に自宅に上がり込んだのかは定かでない。
というのも、離婚を考えていたり、何十歳も年上の高齢男性をセックスに誘ったりするなんて都合のいい存在はいないからだ。
どうしようもない性への衝動を空想上の相手を夢見ることで解消しようとするのが仏文学者らしい。

もっとも、渡辺自身、教え子を夢の中で実体化したものの、性への衝動は解消されなかった。
若い女性と体を重ねることは実際にはできず、夢精した。
その後汚れた下着を洗う姿を見ていられなかったのは私だけではないだろう。
また、常に亡き妻のことを常に思い浮かべていた。
夢の中であれ、教え子に手を出すことは、立場を利用したハラスメントであるということにも気づいていた。
性欲を昇華できた快感などなく、後ろめたい感情が勝っていたに違いない。

孤独

最後に挙げられる「敵」は、孤独だろう。

両親は当然他界しているだろうし、妻は死別、交友関係も限られている中で交友関係といえば、河合優実演じるバーで出会う学生、家を訪ねる教え子、デザイナーの友人、あと強いていえば3日に一度しか風呂に入らない隣人くらいである。

妻の死による孤独には耐えていた。
しかし、孤独に追い込むのは妻の死だけではない。
さまざまな出来事が渡辺を襲う。

まず、学者としてのアイデンティティを維持するのに大きく貢献していた雑誌の連載が、ついに終焉を迎える。
さらには、バーで出会う学生が失踪し、300万円を持ち逃げされる。
尊敬されていると感じていただけに、そのショックは大きいだろう。


そして、トドメを刺すように、友人であるデザイナーが死んだ。
いよいよ本格的な孤独が訪れようとしている。
そのデザイナーの友人は敵から逃げろという。
そして渡辺はその敵から逃げようとする。

しまいには冷淡な視線を送ってきたはずの隣人さえも先立つ可能性を考え、それが実体化することを考えた時、いよいよ完全な孤独であることを察し、絶望するのである。

長生きをする人間を待ち受ける、非常に悲しい問題である。
人はいきなり孤独になるのではなく、徐々に孤独になる。
孤独になるのはゆっくりでも、その孤独に不安を抱くようになるのは急なのかもしれない。

私たちは「敵」に対抗しうるか

どうしようもなく、どこへ向けたらいいのかわからない渡辺の感情は、結局解消されないままだった。
自宅が火の海となって「敵」に胸を撃ち抜かれる描写からは、老人の溜まりに溜まった感情は理屈で処理できるものではなく、爆発を伴うような発散の仕方しかない。
それゆえの自死なのだろう。
漫然とした暮らしへの恐怖、肉欲、孤独という「敵」からついには逃げきれなかったのだ。

本作で死因は明示されていないが、自死を選んだとある程度断言できるのではないだろうか。
あれほど身体的に健康であった人物が病死や老衰死であるとは考えにくい。
300万円を持ち逃げされたことが、生きるための経済的な基盤を侵食し、「X day」の到来を早めたとも言えるのかもしれない。

このような渡辺はかわいそうだと思う人は多いことだろう。
私もそう思う。

しかし、とても他人事とは思えないのだ。
いつ自分の身に孤独が訪れ、漫然とした暮らすことに嫌気がさし、眠っていたはずの性欲を解放させたい衝動に駆られるか、誰にもわからない。
だが、その時は必ず訪れる。

そのような現代の高齢者を取り巻く問題に、われわれはどう対処できているだろうか。
60歳以上の男性の4割も友達がいない、なんて話も聞く。
(参照:「日本企業は「孤独製造装置」? 60歳以上の男性の4割「友人いない」」『毎日新聞』2024/12/16)

渡辺のような人生は成功者のように見えるが、それでも(いや、それゆえか?)あのような人生を送りたいと思えない。

自らの老いに直面し、いつ「敵」が襲ってきてもいいように、いや襲ってこないように自分はどうすべきか、考え抜きたい。
ただ、考え抜いたとしても、「敵」に対抗できるかどうかは別問題である。
きっと「敵」に負けてしまうだろうから、少しばかりでも対抗できるように、友人は大切にしたいと思う。

いいなと思ったら応援しよう!