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正しい裁き

法廷・弁護士ドラマでは、全体のテーマとして、あるいはエピソードの一つとして、冤罪えんざいが扱われることがよくあります。つまり、「無実の罪」であり「濡れ衣」です。特に今期はそのようなドラマが多いように思えます。

裁判に限らず、私たちの日常生活においても、個人レベルで人を裁き、知らず知らずに「冤罪」を生み出しているのかもしれません。

私が小学生の頃、こんなことがありました。妹が『小学一年生』という学習雑誌を読み始めたのですが、ある時、雑誌についてきた解答用紙に鉛筆で答えが記入されていることに妹が気づいたのです。それを見た父は、私を叱りました。

私にはまったく身に覚えのないことなので、否定しましたが、「嘘をつくな! お前以外に誰がいる?」と、ますます激しく叱られました。記入されているのは子どもの字だし、父も母も妹もしていないのだから、私がやったに違いないというわけです。

私には、父がなぜ「父も母も妹も、そして私もしていない」と考えてくれないのか、理解できませんでした。でも、いわゆる状況証拠から、私の仕業と断罪されてしまったのです。泣きながら話しても、父は聞こうともしなかったので、私は途方に暮れ、悔しさで心が折れました。

それから間もなく、それが実は出版社による解答例であり、子どもが鉛筆書きで記入したかのような印刷がなされていたことが判明したのです。私は晴れて「無罪」となりましたが、心には大きな傷が残りました。

父としては、状況的に別の判断はできなかったのかもしれません。しかし、私は大人になってからもこの出来事を時々思い出し、そのたびに、人をむやみに疑ったり断罪したりすることがいかに相手を傷つける愚かなことであるかと実感します。

おそらく、そのように人から疑われて、一方的に非難されたことのある人は少なくないことでしょう。だからこそ、聖書には「人を裁くな」という訓戒が多く記されているのだと思います。

新約聖書のほとんどで「裁く」と訳されている言葉は、もともと「分ける、区別する」ことを意味しており、そこから、「判断する、みなす」という意味になりました。法廷用語としては、「審判・判決を下す」、さらに「有罪の判決を下す」という意味があります。

聖書が「人を裁くな」と言う場合、それは必ずしも裁く(正しく判断する)こと自体を禁じているのではありません。私たちには、自分の考えや限られた知識にしたがって、また、時には高慢さによって、他者を一方的に非難し、間違っていると決めつける(有罪と定める)傾向があるので、そのような態度に気をつけるべきことを言っています。

あなたがたの父が慈しみ深いように、あなたがたも慈しみ深い者となりなさい。人を裁くな。そうすれば、自分も裁かれない。人を罪に定めるな。そうすれば、自分も罪に定められない。赦しなさい。そうすれば、自分も赦される。

(ルカ6:36-37 聖書協会共同訳)

そして、私たちが何らかの理由で誰かについて判断を下さなければいけない場合、いくつか覚えておくべきことがあります。

まず、表面的なことだけではなく、状況や動機なども考慮に入れなければ、正しい判断はできません。

うわべで人をさばかないで、正しいさばきをするがよい。

(ヨハネ7:24)

そのように努めても、私たちにはすべてを知ることはできず、完全に正しく判断できるのは神だけであると認める謙虚さが必要です。

[神よ、]まことにあなただけが、すべての人の心をご存じです。

(列王記上8:39 聖書協会共同訳)

また、たとえ相手に過ちがあったとしても、自分も完全な人間ではなく、過ちを(場合によっては、相手よりも大きな過ちを)犯すのだと悟っていなければ、高ぶりによって物事を正しく見られなくなります。

人を裁くな。裁かれないためである。
あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量られる。
きょうだいの目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目にあるはりに気付かないのか。
きょうだいに向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に梁があるではないか。
偽善者よ、まず自分の目から梁を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、きょうだいの目からおが屑を取り除くことができる。

(マタイ7:1-5 聖書協会共同訳)

急いで判断を下し、怒ったり、あなたの考えを述べたりするのではなく、まず相手の言い分に耳を傾けることは、非常に大切です。

人はすべて、聞くに早く、語るにおそく、怒るにおそくあるべきである。

(ヤコブ1:19)

私たちが批判的になって一方的に相手を裁いてしまうことがありませんように。そして、誰かについて判断を下す必要が生じた際には、相手の言い分をよく聞いた上で、「正しい裁き」ができますように。




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