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「倒されても滅びない」オオバコ

逆境を乗り越えることについては、よく雑草が例に出されます。一口に雑草と言っても、みな名前があり、それぞれの強みを活かして逆境に立ち向かっています。

しなやかさという強さ

最近、朝ドラでも話が出ましたが、オオバコが踏まれても大丈夫なのは、葉の外側が柔らかく、内側には硬いすじ(葉脈)が通っていることによって、適度な「しなやかさ」があるからだそうです。

私たちも、周りからのダメージをうまく受け流すしなやかさを持ち、内には神への堅い信仰を保つことで、何度踏まれたとしても、そのたびに回復しながら成長していけるのでしょう。

オオバコのそんな強さについて考えていると、パウロがコリントにいる信徒たちに書いた手紙を思い出しました。

倒されても滅びない

しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである。わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。迫害に会っても見捨てられない。倒されても滅びない。いつもイエスの死をこの身に負うている。それはまた、イエスのいのちが、この身に現れるためである。

(2コリント4:7-10)

パウロは、同じ手紙で、自分が経験した実にさまざまな苦難や迫害を説明し、最後に「もし誇らねばならないのなら、わたしは自分の弱さを誇ろう」という言葉で締めくくっています。(2コリント11:23-30

彼自身は弱くもろい「土の器」でしたが、その内には神の測り知れない力が宿っていたので、オオバコのように、何度踏みつけられ倒されても、神への信仰と信頼の心でしなやかに受け止めながら、それを乗り越えることができました。

将来の希望

「イエスの死をこの身に負い、イエスの命がこの身に現れる」とは、この世を救うためにイエスが苦難の生涯を歩まれたように自分もそうするのをいとわないという意味であり、また、イエスが復活されたように自分も復活して永遠の命にあずかるという希望でもあったことでしょう。

パウロが「倒されても滅びない」でいられたのは、彼の内側に、この将来への希望と神の愛への確信という硬い筋があったからです。

わたしは思う。今のこの時の苦しみは、やがてわたしたちに現されようとする栄光に比べると、言うに足りない。・・わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。

(ローマ8:18,37)

踏みつけられ、倒されたように感じる時には、パウロを愛してくださった神があなたの神でもあり、あなたを愛しておられることを思い出してください。

逆境の勝利者

パウロが、どれだけ苦難や迫害に会っても、「わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある」(新共同訳では「輝かしい勝利を収めています」)と言ったのは、とても興味深いことです。

オオバコは、踏みつけられることをただ耐えているのではなく、それを勝利への手段としています。オオバコの種は、水に濡れると粘着物質を出して、それを踏んだ人や動物の足の裏にくっつきやすくなります。そうやって踏まれることによって、自らの分布を広げているわけです。

実は、オオバコは背が高くないため、他の雑草との競争に負けてしまう弱い植物です。そこで、他の雑草が生えない場所、つまり人に踏まれるような場所でこそ、その逆境を味方につけて、繁栄することができます。

もしあなたが逆境の真っ只中にいて、「自分は強くない、負けてしまいそうだ」と感じるなら、そんな時にこそ自分の中にある筋を信じ、神の力によって勝利することを学べるのかもしれません。

あるいは、オオバコのように逆境を味方にした生き方でさえ学ぶチャンスなのかもしれません。

主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる。」 それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。

(2コリント12:9)



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