今そこにない危機
=思い煩いを神にゆだねる=
先日、とても恐ろしい経験をしました。
見知らぬ人から紙を渡され、銃を突きつけられて、紙に書かれたことを行うよう要求されたのです。
言われたとおりにすると、また別の紙が渡され、一体こんなことがいつまで続くのだろうと、私の心は凄まじい恐れに満たされました。
その時、あることに気づいたのです。
あ、これは夢だ! ただ目を覚ませば、この危機的状況から逃れられるんだ・・。
そして私は目を開け、その瞬間に、私を圧迫していた恐れは跡形もなく消えました。
夢で本当によかったです。
こんなふうに人生の問題や危機がすべて消えてくれるなら、どれだけいいことでしょう。
でも、夢と同様、実際に存在していない問題や危機を、私たちが頭の中で作り出してしまうことはよくあります。
「もし~が起こったらどうしよう」と、実際には起きておらず、これからも起こらないかもしれないことについて心配するのです。
そのような「思い煩い」を表現するのに、新約聖書は「心が分裂する、反対方向に引っ張られる」という意味の言葉を用いています。
私たちが思い煩うことの大半は実際に起こることがないというのに、心は分裂して乱れ、喜びと平安が奪われてしまうのです。
イエスはマタイ6:25-34で、思い煩ってもしょうがない理由を挙げています。
あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。(マタイ6:27)
思い煩ったからといって、問題は解決せず、何の助けにもなりません。
何らかの計画を立て、解決策を見いだすべき時でも、思い煩いで頭がいっぱいになっているなら正しい判断ができなくなります。
あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。(マタイ6:32)
私たちに必要なものは神がすでにご存知であると信頼すること、そしてその神に思い煩いをゆだねる(お任せする)ことが、思い煩いから解放される鍵です。
神はあなたがたをかえりみていて下さるのであるから、自分の思いわずらいを、いっさい神にゆだねるがよい。(1ペテロ5:7)
ここで「ゆだねる」と訳された言葉は「投げ込む」という意味であり、思い煩いのいっさいを神の元へ投げ込む、つまり思い切って完全に手放し、神が良きに計らってくださると信頼することを言っています。
なぜなら、神は私たちをかえりみていてくださるのですから。
私たちは祈ることによって、思い煩いを神にゆだねることができます。
何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。(ピリピ4:6-7)
神が祈りに耳を傾けてくださることや、これまでにしてくださったことに感謝しつつ、信頼を込めて祈りを始めます。
そして、あの賛美歌にあるように、「いつくしみ深き」友であるイエスに心の嘆きも思い煩いもすべて話して、自分の肩にある重荷を下ろしましょう。
そうすれば、私たちの心は、思い煩いではなく神の平安で満たされていくことでしょう。
あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。(マタイ6:34)