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俳句と真珠とクリスマス
クリスマスを題材にした俳句は意外に多くあります。
今日は私の好きな句をいくつか紹介しながら、クリスマスについて考えてみたいと思います。
クリスマスの俳句
「八人の子供むつましクリスマス」(正岡子規)
明治29年に詠まれたこの句によって、初めてのカタカナの季語「クリスマス」が生まれました。
肺結核で療養中だった子規は、たくさんの子供たちが仲むつまじく過ごす姿に、微笑ましく平和なクリスマスを想ったのでしょう。
今年のクリスマスに、そんな平和なひと時が世界中の子供たちに訪れることを願います。
「クリスマスとは静けさの中にこそ」(稲畑汀子)
この人は、俳人・高浜虚子の孫で、クリスチャンです。
日本のクリスマスは表面的・商業的な面が強調されがちですが、この句は、その本質に目を留めることの大切さを問うているようです。
クリスマスは楽しく賑やかな時であり、それはそれでいいのでしょうけれど、その真の意味は、静けさの中にこそ見出されます。
そして、クリスマスの詩や祈りなどを集めた本で見つけた次の句には、クリスマスの本当の意味がよく表現されていると思いました。
「真珠は貝の生身の傷やクリスマス」(中村明子)
この本には、こんな解説が書かれていました。
真珠をつくるアコヤガイは、貝の中核に異物を抱かせることにより、核の周りに幾重にも分泌物の膜ができて真珠となる。自らの生身を傷つけられることなしに、美しい真珠たりえない。作者は真珠の輝きの背後にある痛みにクリスマスのしるしを見ている。
貝は異物によって体を傷つけられ、その反応として分泌物を出すことによって、美しい真珠を生み出します。
養殖真珠の場合、わざとその異物を入れるのですが、それは貝にとっては手術のようで、かなり衰弱させられることであり、中には死んでしまうものさえあるそうです。
真珠の輝きは、そんな貝の痛みを通して生まれます。
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真珠と天の国
新約聖書の時代には、真珠は希少価値が高く、現代では想像できないほど高価なものでした。(『天の国は真珠のよう』を参照してください。)
イエスは、天の国をそのような真珠に例えています。
天の国は、良い真珠を探している商人に似ている。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。
真珠(そして、天の国)は、それほど高価であり、美しく価値あるものだということです。
クリスマスの本当の意味
天の国という高価な真珠を私たちに与えるために、イエスはその身に傷を負うことをいとわれませんでした。
「真珠は貝の生身の傷やクリスマス」
毎年、何千万もの人がこの世に生まれ、さまざまな決断を下し、目的を見いだしながら人生を送っていきますが、イエスは初めから、私たちのために傷を負い、死ぬことを目的として、この世に来られました。
【キリストは】わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた。その傷によって、あなたがたは、いやされたのである。
イエスの誕生は、十字架への道のりの始まりでした。
人類への愛の贈り物として与えられた神の独り子イエスは、私たちのために傷つき、死ぬことによって、信じる者が天の国や永遠の命という美しい真珠を得られるようにしてくださいました。
こんなにも素晴らしい恵みが私たちに注がれていることに感謝しつつ、イエス・キリストの降誕を祝うこの時期を過ごすことができますように。
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
言葉では言い尽くせない贈り物について神に感謝します。