私の名を呼んでください
3ヶ月ほど前のバイブルメッセージで、『悲しみよありがとう』という本から水野源三さんの詩を紹介しましたが、昨日はその本を読んでいて、また別の詩が心に響きました。
夜の闇の中にただ一人横たわり、不安を抱えている時に、ただ神に自分の名前を呼んでもらえさえしたら安心するのだと訴えているようです。
福音書には、イエスが不安を抱える人や、まもなく大変な経験をする人に対して、名前を呼んでから話しかける場面がいくつも記されています。
例えば:
多くのことに心を配りすぎて、思い煩っていたマルタ (ルカ10:38-42)
ユダヤ人同胞から裏切り者として嫌われていたザアカイ (ルカ19:2-10)
まもなく信仰を揺るがされるほどの経験をするシモン・ペテロ (ルカ22:31-32)
イエスの遺体が盗まれたと思い込み、泣いていたマリヤ (ヨハネ20:11-16)
そうやって名前を呼ぶこと自体に、「あなたは一人じゃないよ。私はあなたの味方で、あなたの幸せを願っている」というメッセージが込められているようです。
私たちとイエスとの関係を示す「羊と羊飼いのたとえ」で、イエスはこのように言われました。
当時の羊飼いは、現在私たちがペットや馬などにするように、1匹1匹の羊に名前をつけていたと考える解説者もいるので、ペットに置き換えて考えてみるとイメージが捉えやすいかもしれません。
家族のように大切にしているペットを、「はい、そこの犬、こっちにおいで」とは言わないで、ちゃんと名前を呼びますよね。名前で呼ぶのと、「そこの犬(または羊)」と呼ぶのとでは、親しさの度合いがまったく違ってきます。
私たちはイエスにとって、大勢の中の一人ではなく、個人的なつながりがある大切な存在だということです。
イザヤ書には、バビロンで捕囚の身にある人たちへの、こんなメッセージが記されています。
ここでもまた、神は私たちの名を呼ぶほど、私たちのことを親しく大切に考えてくださっていることがわかります。「あなたはわたしのもの」なので、私たちが大水や火のような経験に遭う時には共にいて支え守りたいし、とにかく、私たちを愛してやまないのです。
そんな神の優しい呼びかけを聞くには、私たちの心を静め、周りの雑音や自分の思考ではなく、神の声に耳を傾けなくてはいけません。私たちの目を、問題や自分自身にではなく、神に向ける必要があります。
何も見えない夜の闇の中にいるように感じる時には、「あなたと共におり、あなたを愛している」と言われた神を信じ、その優しい呼びかけに耳を傾けてみてください。