悲しい時に思い出したい聖書の言葉
私たちは生きていく上で、喜びばかりではなく、悲しみや嘆きも多く経験します。聖書の登場人物も同じで、中には信じられないほど深い悲しみを味わった人たちもいますが、そこには常に慰めと希望も見られます。
今回は、心が悲しみに包まれた時に思い出したい聖書の言葉をいくつか紹介したいと思います。
悲しい時には悲しんでもいい
悲しみは人生の一部であり、悲しい時に泣き、嘆くのは、いたって正常なことです。いつも笑っていなくてはいけないとは、聖書に書かれていません。悲しいのに無理して笑顔を作るよりも、涙を流す方が健康的です。
神はあなたの涙を見ておられる
ヨブが悲しみの淵にあり、友人たちから正論をもって責められた時、彼は神に目を留め、神に向かって涙を流しました。そして、神はその涙を受け止めてくださいました。
神が自分の真の友であり、祈りに耳を傾けてくださると知る人は、安心して嘆き、悲しみ、泣くことができます。
ダビデも多くの悲しみと苦しみを味わった人ですが、そんな時、神はただ天から見ているだけではなく、私たちのすぐ近くにいて助けてくださることを悟りました。
ダビデ王の子孫ヒゼキヤ王も、病気で死にかかっていた時、神が自分の涙を見、祈りを聞かれる方であることを知りました。
悲しみのない世界
神は私たちの悲しみを癒やしてくださるだけではなく、いずれ悲しみのない世界が訪れることを約束しておられ、それは私たちに希望を与えます。
悲しみの人
イエス・キリストの受難を預言するイザヤ53章には、こんな言葉があります。
実際、イエスは、敵だけではなく、弟子や家族を含む多くの人に捨てられ、十字架にかけられるなど、極度の苦しみや悲しみを知る「悲しみの人」です。そして、私たちが悲しむ時、一緒に悲しんでくださいます。
友人ラザロが死んだ時には、彼を生き返らせる前のこととして、こう記されています。
ラザロを愛するように私たち一人ひとりを愛し、私たちと共に悲しみ、涙を流されるイエスは、次の約束もされました。
悲しみから生まれるもの
過去の出来事は変えられなくても、その意味は変えられます。もし、悲しい経験から何かを学び、身につけ、成長できるなら、それはただの悲しい経験ではなく、私たちの宝物となります。
ちょうど、「悲しみの人」イエスの十字架が、最初は死と絶望の象徴であったのに、救いと勝利の象徴に変わったように。
そして、たとえ起きたことの意味を変えるのが難しいとしても、苦しく悲しい経験によって、他の人への思いやりや優しさが生まれ、自分と同じような経験をしている人を慰め、力づけられるようになります。
悲しみの時には、あなたの涙を見、祈りを聞いておられる神からの慰めを見出だせますように。そして、その慰めを、いつか他の悲しんでいる人とも分かち合えますように。