心配事がある時に思い出したい10の聖句
「心配」という言葉は中国語にはなく、「心配り」を音読して作られた日本独自の言葉だそうです。
「心を配る」=「心にかける」というのが本来の意味ですが、現在では主に「心にかけて思い煩う」という意味で使われるようになりました。
この心配は、聖書では、不安、思い煩い、悩み、憂い、重荷といった言葉でも表現されています。
今回は、そんな心配事で苦しくなった時に思い出していただきたい聖書の言葉を紹介します。
明日(将来)のことを思い煩うと、今日という日を楽しめなくなります。
明日の力を前借りできないのに、明日の心配だけを前借りして、今日の力をそれに費やしているようなものです。
今日の力は、今日の苦労のために使いましょう。
そうすることで、明日の道が開けます。
多くの場合、自分にできることがあれば、心配する必要はなく、ただそれを実行するだけです。
そして、自分の力でどうにもならないようなことについては、いくら心配しても、何の役にも立ちません。
心配で落ち込んでいる時には、信仰の兄弟姉妹や信頼できる友人からの励ましが力になります。
自分一人で抱え込む必要はありません。
神もまた私たちのすぐ近くにいて、祈りの時間や御言葉などを通して、私たちを助け、力づけたいと望んでおられます。
人生を航海だとしたら、この世は海で、私たちは船と言えるでしょう。
航海は常に順風満帆ということはなく、嵐に遭う時もあれば、危険な海域を通過する時もあります。
そんな時には、私たちの熟達した船長である主を見つめてください。
主はすべての海をすでに征服しているので、どんなことにも対処することができます。
私たちが周りの危険でも自分でもなく、主に目を留めているなら、心に平安が訪れます。
あがいて、もがいて、自分でなんとかしようとしても、私たちは神ではなく、限界があります。
心を静め、思い煩いという重荷を主にゆだねましょう。
かえりみるとは、心にかける、つまり本来の意味で「心配」してくださっているということです。
祈って、心配事を神に伝えることで、重荷を下ろすことができます。
くびきとは横木でできた道具で、牛などに車やすきを引かせる際、2頭の首を固定させるために使われました。
もし、その心配事について私たちにできることがあり、私たちの負うべき重荷があったとしても、主は私たちとくびきを共にし、一緒にそれを運んでくださいます。
一人で負うよりも、ずっと軽くなることでしょう。(なにしろ、主の力は無限ですから)
心配事について一つ良い点は、それが私たちを神のもとに駆り立てることです。
いつまでも心配し続けないで、祈って、神に心を打ち明けましょう。
神が私たちの悩みや不安を心にかけ、「心配」してくださっているのですから。
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