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少し前に、友人から「祈ってほしい」と連絡があり、話に耳を傾けている内に、「主よ、いつまでですか」という詩篇13篇からの言葉が思い浮かびました。 その人の悩みは、かなり長い期間続いている問題が関係しており、「主よ、いつまでですか」という問いは、本人もそうだと思いますが、聞いている私にとっても、自然と出てくるものだったのです。 そこで、電話口で友人のために祈りながら聖書を開き、祈りの言葉の一部として詩篇13篇全体を引用しました。 信仰のあるなしに関わらず、人生に逆境や痛みは
昨日は父の日・・皆さんは何かされましたか。 私は、父に感謝するとともに、自分自身が父親であることの幸せをあらためて感じました。 息子とは、これまで楽しい時間をたくさん過ごしてきたし、叱らなければならない時や、ぶつかる時もあったけれど、一緒に過ごしてきた時間の記憶はすべてかけがえのないものです。 天の父である神もきっと同じように、私たちがあまり「いい子」ではなかった時も含めて、私たちとの時間をすべて大切なものとし、父親である喜びを感じておられるのではないかと思います。
私たちが誰かを愛する時(恋人であれ、家族や友人であれ)、それを行動や仕草で表現しますね。 神には肉体がありませんが、私たちへの愛や配慮を私たちに分かりやすく説明するために、聖書は、神が人間と同じような身体の部位を持っておられるかのように語っています。 その幾つかを紹介しましょう。 神の顔これは、「アロンの祝祷」と呼ばれる祝福の祈りですが、アロンが考え出したわけではなく、神が「こう祈りなさい」と与えられたものです。 つまり、私たちに対する神の思いが詰まった文章なのです。
周りに振り回されることなく、自分の責任で自分のために自分の人生を生きるという意味で、「あなたは自分の人生の主役」という言葉があります。 でも、一人一人が自分の人生の主役であるということは、私たちは皆「他人の人生の脇役」ということでもあります。 どんなドラマや映画、演劇でも、脇役の存在は非常に重要であり、互いの人生ドラマにおいても、それぞれがいい脇役となることは幸せの鍵です。 そのためには、相手の気持を思いやらなければいけないし、何らかの代価が自分にかかる場合もあります。